私は、よく図書館に本を借りにいきますが、いつも残念に思うことは、カウンターで本を借りる手続きをする人のほとんどが無言であるということです。
近所の図書館の職員さんたちは、「お待たせしました、次の方どうぞ」「はい、カードをお返しします」などと、民間サービスのように丁寧に応対してくれます。
それに対して、借りる人の8割以上は、まるで機械を相手にするかのように、黙ってカードと本を差し出し、また黙って受け取って去っていくのです。
ただで本を貸してもらっているのですから(間接的に税金を払っているとはいえ)、「お願いします」の一言ぐらい言えばお互いに気持ちがいいのに、と思います。
ひと頃、電車の中で化粧をする女性についての議論がありましたが、最近は議論をするのもばかばかしくなったのか、あまり話題にのぼらなくなりました。
化粧というものは、人前に出るためにするものです。
電車の中で化粧をする人にとって、「自分と関係のない赤の他人は、人間ではない」とみなしているということになります。電柱か石ころと同じだとでも思っているのでしょう。
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毎日のように伝えられる凶悪な犯罪のニュースを見るたびに、一般の人たちが感じる疑問は、「犯人は、そんな残酷なことをして、なぜ罪悪感に苦しむことがないのだろうか」ということでしょう。
犯罪を犯すほど心のゆがんでしまった人間は、他人には想像もできないような辛く苦しい、不幸な経験をしてきたに違いありません。
犯罪者のほとんどは、実は、罪を犯しておきながら、自分は加害者ではなく、むしろ被害者だと思っています。
「もともと自分は心の清らかな人間であったのに、こんな純粋な自分を虐げ、疎外し、苦しめてきた他人が悪い」というわけです。
自分だけが損をしている、という被害者意識から、損得のバランスを取り戻すために他人に害を与えるのです。
ある女性に執拗につきまとい、ついには殺害してしまった男は、殺害前、交際の申し込みを断り続けたその女性に対し、「僕をストーカーにしないでください」と言ったそうです。
このひと言に、ストーカーとなるような人間の本性が凝縮されているように思います。
彼は、自分を純粋な人間だと思い込んでいたのでしょう。「完璧に純粋な人間でなければ、他人に認めてもらえない」という間違った観念を子供のうちに刷り込まれたのかもしれません。
——自分のような純粋な人間が嫌われるはずがない。しかし、現実に嫌われている。また、純粋な人間が人を憎んではいけない。しかし、自分は人を憎んでいる。
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幸せになるためには、当然ながら、「幸せとは何か」が判っていなければなりません。
幸せな人とは、「自分はいかに生きるべきか」をよく考えている人のことです。
ここで言う「考える」というのは、学校の成績の良し悪しとはまったく関係がありません。一流大学を出ている人でも、「自分は何になるか」は判っていても、「いかに生きるか」について考えていない人は、たくさんいます。
不幸な人は、生きることに虚しさを感じています。
自分の心と真剣に向き合うことを怖れて、ただ無為に時間が過ぎるのを待つだけの人生を送っています。
公共の場で迷惑行為をはたらいて、他人から注意され、その相手を逆恨みして暴力を振るうという事件が多発しています。
いわゆる「キレる」状態というのは、「冷静になることを怖れている」状態のことです。
冷静に話し合えば、とうてい自分の正当性を主張することができず、都合が悪いので、「頭に血がのぼって訳が判らない状態」になることでごまかし、弱い自分を守ろうとしているのです。
他人と触れ合うことを避けて押し黙ってしまう人も同様に、堂々と話し合えば自分の非を認めざるをえなくなるから、必死でごまかしているのです。
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漬物の沢庵(たくあん)を考案したことで知られる沢庵禅師は、剣の達人でもありました。
彼は、「無心の剣法」というものを説きました。
無心とは、何も考えずにぼんやりしていることではありません。「ひとつのことにとらわれない」という意味です。
剣の勝負で、敵の腕を打とうと考えると、腕ばかりに心がしばられ、それ以外の攻めの機会を逃してしまう。
敵が面を打ってくるのではないかと思えば、面を防ぐことばかりが気になり、わき腹に隙ができる。
勝とうと思えば、勝つことばかりに心をとらわれ、焦りが生じる。
剣法の極意は、「精神を集中しながら、しかも心はどこにもおかないこと」なのだそうです。
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いつも他人に対して不平や不満ばかり言っている人は、自分の信念や価値観をもたず、他人に振り回されている人だと言えます。
「他人にこんなことを言われた」「他人にこんなことをされた」などと、他人の言動にいちいち腹を立てていては、まったくキリがありません。
「自分はこうしたいのに、なかなかできない」と、自分のことで悩むのは、大いに結構です。悩みがなければ、成長もありません。
しかし、「他人にこんなことをされた」というのは、自分の問題ではなく、他人の問題です。他人の問題をいくら気にしても、自分のためにはなりません。
いちいち他人の問題をあげつらう人は、えてして向上心がありません。自分の欠点は棚に上げてしまうのです。
たとえ他人があなたをバカにしようとも、それは単に、「その人があなたをバカにした」という事実が存在するだけで、あなたが本当のバカであるというわけではありません。
自分に非がないのなら、そんな人の言うことは気にせず、堂々としていればよいのです。
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他人が喜ぶことをしてあげるのは、よいことです。
ただし、その動機が肝心です。「自分が好かれたいから」という理由なら、やめた方がよいでしょう。結局、自分も相手も苦しめることになります。
それは、自分でも無意識のうちに、相手の心を巧妙に操作しようとしているということなのです。
自分の思い通りにならなかったときには、逆に恨みに変わってしまいます。
他人からの愛情が得られないといって苦しんでいる人は、自分に問いかけてみてください。
なぜ、自分には、他人に愛を要求する権利があるというのか、と。
あなたが相手に何かを「してあげた」からですか。また、相手が一度でもあなたを愛したなら、永久に愛し続けなければならないという義務が発生するのですか。
愛を要求する権利など、誰にもないのです。
私たちに許されているのは、自分を愛してくれた人に感謝することだけです。
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人間関係がうまくいかず、暗く落ち込んでしまうタイプの人にとって、もっとも大きなストレスの原因のひとつは、「他人に言いたいことがはっきり言えない」ということでしょう。
心の中にたまったもやもやが、重くもたれ、消化不良を起こしているのです。
気の弱い人は、歯に衣着せぬ物言いをする人に対して、「自分はこんなにもビクビクと他人のご機嫌をうかがって生きているのに、どうしてあなたは、言いたいことをはっきり言うことが許されると思うのか」という怒りを感じます。
しかし、その鬱屈した不満さえも口に出すことはできず、せいぜい不機嫌を顔に表したり、無視をしたりするという対抗手段しかとることができず、そんなふがいない自分がますます嫌になってしまいます。
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人間の本当の「明るさ」とは、社交的であることや、弁が立つということではありません。
明るさとは、ものごとのとらえ方の問題です。
内向的な性格の人でも、口下手な人でも、明るく生きることは可能です。
むしろ、一方的にしゃべりまくる人や、何かにとり憑かれたようにいつも活動的に動き回っている人は、「そうしていないと不安だから」という衝動に突き動かされているだけで、実は自分の暗さを必死で押し隠している人だと言えるのかもしれません。
また、明るい人というのは、いいことばかり、楽しいことばかりを考えている人のことではありません。辛いことから目をそらすのは、単に人生から逃げているだけです。
本当に明るい人とは、どんなことでも受け入れる心の深さをもっている人のことなのです。それも、深刻にとらえるのではなく、柳に風と、軽く受け流すことができる人のことです。
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「自分に自信がもてない」という人は、他人からの評価という「結果」ばかりを気にしすぎています。
仕事でも恋愛でも、「なぜ、自分はそうしたいのか」という本質を見失ってはいけません。
人は誰でも、自分の生きがいのために仕事をしているのであり、自分が恋愛をしたいからしているのであり、生きたいから生きているのです。
自分の人生を楽しんでいれば、他人の評価などたいして気にはならないはずです。
あなたが、会社の部下の誰かに重要な仕事を任せなければならない状況を想像してみてください。
いくら頭がよくても、「いやいやながらやっている」という態度をとる人に、重要な仕事を任せる気にはならないでしょう。はっきり言って、「嫌ならやめろ」と言いたくなります。
能力があるかどうかという以前に、少なくとも、「やる気のある人」をあなたは選ぶのではないでしょうか。
絶対に成功するという確証など、誰にもありません。仮にその部下が失敗しても、誠意をもって行った結果ならば、あなたは彼を責める気持ちにはならないはずです。
実際に成功するか、どうかということは、二の次でいいのです。やる気があるか、どうかの方が評価に大きな影響を与えます。
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ある日、私が電車に乗っていたとき、駅に着いてもいないのに、走行中に突然停車しました。「停止信号が出たため」という車内アナウンスがあっただけで、原因は判りません。
1分たち、2分たち、乗客たちはいらいらとざわめき始めました。車掌に大声で詰め寄る人もいました。
やがて、電気系統のトラブルのため、しばらく停止するというアナウンスが流れました。原因が判ると、ざわついていた乗客たちも静かになりました。
原因が判ったところで、走行の再開が早くなるわけではなく、待たされる時間は同じであるのに、乗客たちの怒りや不安はおさまったのです。
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