No.101『しないよりはするほうがよい』
他人に言いたいことをはっきり言えないために、誤解され、悔しい思いをしている人も多いことでしょう。
自分は内向的な性格のせいで、責められても言い返すことができず、損ばかりしていると思っている人もいるかもしれません。
内向的で口下手な性格が悪いのではありません。しかし、そのために悔しい思いをし、被害者意識を感じるのは、問題だといえます。
誤解を受けたくなければ、やはり言いたいことは言うべきなのです。
内向的な人は、自己を主張することに慣れていないので、他人に対して、「ナメられてはいけない」「白黒をはっきりさせなければいけない」と勇み立ってしまいがちです。
「勝つか、負けるか」という敵対的な関係でしか考えられないような相手なら、議論する価値はありません。憎しみをもって他人と対決しても、よけいなストレスをためるだけです。
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自己主張をするときは、「相手との関係をよくしたいから」という気持ちで臨むことが大切です。
自分の気持ちを率直に言ってみて、相手の言い分も聞いてみれば、自分も相手を誤解していたことに気づいた、ということもよくあるものです。
ある人に対して、言うべきことを「言いにくい」と思うなら、自分はその人と真剣につきあう気がないということです。友好的な関係を築きたいと思う相手には、やはり正直に気持ちを打ち明けるべきです。
はっきりと自己を主張したのに誤解されたなら、仕方がありません。それでも、言わないために誤解を受けるよりは、よっぽどましです。
何かを「する」ことによって誤解を受けることよりも、「しない」ことによって誤解を受けることのほうが、はるかに多いのです。
寡黙な性格は悪いことではありませんが、人間として基本の礼儀であるあいさつや、「ごめんなさい」「ありがとう」ということすら言えない人がいます。
当人は、恥ずかしいから仕方がないと思っているのかもしれませんが、あいさつをしないことのほうが、何百倍も恥ずかしいことです。
あいさつをしない人は、他人に対して敵意をもっているつもりはないでしょうが、相手にはそれが敵意だと感じられるのです。「私に何か恨みでもあるのではないか」と、勝手な誤解をされるものです。
何かを「する」ことによって、「恥をかくのではないか」「変に思われるのではないか」とよけいな心配をする人は、なぜか、「しない」ことによって恥をかくことには無頓着なものです。
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会社の同僚などに酒の席に誘われて、本当は気が進まないのに、なかなか断れないという人は、断れば「変な奴だ」と思われ、疎外されてしまうのではないか、ということを怖れています。
しかし、参加しておきながら、「本当は来たくなかったのに」と、つまらなそうな顔をしていることのほうが、よっぽど変に思われるのです。
酒の席が苦手なら、「私は、みんなでワイワイガヤガヤ騒ぐというのが、どうも苦手で」と、はっきり言ったほうがよいのです。それでも強引に誘われたなら、雰囲気に馴染めなくても、まわりの人も「無理に誘ったのだから」と納得し、気を遣ってくれるでしょう。
自分の苦手な部分を堂々とさらけ出す人のことを、「情けない奴だ」と思う人はいません(もしいるとしたら、その人は、相当性格がひねくれています)。
無理をして強がることのほうが、よっぽど情けないことです。気が進まないことは、断ってもよいのです。
断ることによって「変に思われること」を怖れるのなら、断らないことによって受ける誤解のほうをもっと気にするべきです。
自分に悪意がなければ、何かを「した」ことによって他人から嫌われることは、めったにありません。しかし、悪意はなくとも、「しない」ことによって嫌われることは多分にあるのです。
「変に思われること」を気にするなら、なおさら、言うべきことははっきり言わなければなりません。
何かをするべきかどうか、迷ったなら、たいていの場合は、したほうがよいでしょう。やってみて、失敗したなら改善していけばよいのです。やってみなければ、それが失敗であるかどうかも判りません。
(おわり)