No.175『問題を個別に考える』
「最近の若者は」「主婦は」「フリーターは」などと、特定の層を十把ひとからげにして論じられると、言われた側は不愉快に感じるものです。
「最近の若者」にもいろいろな人がいるのだから、個々人を見て個別に判断してほしい、と思うことでしょう。
しかし、私たちは、自分に言い訳をするときは、知らず知らずのうちに、この「一般化」でごまかしてしまっているものです。
どうせ貧乏な男は女性にもてないだろう。
どうせ女は容姿が美しいほうが得をするのだ。
どうせ自分には学歴がないから。どうせ自分は親に愛されずに育ったから……。
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やはり、自分自身についても、一般論としてではなく、自分特有の問題として考えなければなりません。
貧乏な男性がもてないわけではありません。「どうせ貧乏人はもてないのだ」とひがんでいる人がもてないのです。
いくら金持ちでも、それを鼻にかけ、他人を見くだしているような人は嫌われます。
客観的な条件によって人を判断することはできません。要は、その人自身の心のもち方の問題なのです。
恋人に傷つけられたり、裏切りられたりしたとき、「どうせ世の中の男性(女性)は皆同じなのだ。もう二度と恋愛なんかするものか」と心を閉ざしてしまうことがあります。
しかし、世の中の男性(女性)がすべてそうなのではなく、自分が、自分にふさわしい恋人として選んだ相手がそうだったというだけです。
一般化してごまかそうとせず、自分と相手との問題として考えなければなりません。
自分の欠点に劣等感をもっている人は、それを必死に隠そうとします。
表面上は明るく振る舞っているが、本当は臆病な部分もあり、卑怯な部分もある……。それを友人や恋人に知られれば嫌われてしまうに違いないと思い込んで、びくびくと怯えてしまうのです。
たしかに、みにくい部分を知られれば、その点について嫌われることはあるかもしれません。しかし、それはただ、欠点が嫌われたというだけであって、自分という人間がすべて否定されたわけではありません。
人は、ある一点のみにおいて他人を好きになったり嫌いになったりするものではありません。
ある部分について嫌われたとしても、ほかの部分で補って、総合得点を上げるようにすればよいのです。
自分が他人から嫌われることを怖れている人は、他人を嫌うことにも強い罪悪感を抱き、怒りや不満を抑え込んでしまうことがあります。
他人を嫌うということは、とても不愉快な感情ですが、無理に抑えてしまえば大きなストレスとなり、自分の心をむしばむことになります。ため込まないよう、うまく発散させたほうがよいのです。
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心ない言葉を浴びせられたとき、迷惑な行動をとられたとき……。怒りを感じるのは当然です。
「相手の具体的な行動や態度に対して腹を立てているだけであって、相手という人間そのものを否定しているわけではない」と考えると、ずいぶん気も楽になります。
他人を愛するとは、欠点も含めてすべてを受け入れることですが、嫌いな点はやはり嫌いであり、無理に好きになることはできません。
嫌いな点まで好きになろうと努力することは、自分の心をごまかすことであり、とても不自然なことです。
嫌いな点は、嫌いな点として受け入れるしかないのです。相手の好きな点、嫌いな点を認めた上で、どういう付き合い方をするかを決めるのは自分です。
また、そう考えることによって、自分の欠点を知られることによる怖れも少なくなっていきます。
人間は誰も完璧ではないのですから、他人から見れば、どこか気に入らない点はあるはずです。
欠点は、直せるなら直したほうがよいに決まっていますが、どうしても直せないなら、それはそれとして、ほかの長所で埋め合わせればよいのです。
新しいアパートに引っ越すとき、駅から近く、日当たりもよく、広くて新しく、家賃も安いところなど、いくら探しても見つかりません。
どれかを優先させるかわりに、どれかを犠牲にしなければならないのです。
何を優先させるかは、人それぞれの自由です。日当たりを犠牲にして家賃の安いところを選んだなら、日当たりが悪いことに対していつまでも文句を言ってはいけません。
人は皆、いいところもあれば悪いところもある。好きな人もいれば嫌いな人もいる。好かれることもあれば嫌われることもある。
ひとつで全体を評価してはいけませんし、全体でひとつを判断することもできません。
その中で、自分が何を優先させるかということが重要です。
(おわり)