No.241『自分が求めているものを自覚する』
ある結婚詐欺師の男が逮捕されました。
彼は、十数人もの女性たちに甘い言葉をかけて言い寄り、多額のお金をだましとっていたのですが、彼が捕まった後の被害者たちの反応は、意外なものでした。
多くの被害者の女性たちが、「彼は優しい人だった。私への愛情は本物だったと信じている」と語り、彼の減刑を求める嘆願書を出した人もいるというのです。
第三者から見れば明らかにだまされているのに、それを認めようとしない女性たちの心の裏には、ひとつには、「だまされていたということを認めてしまえば、自分があまりにもみじめだ」ということがあるでしょう。
もうひとつは、「自分は人を疑うような心の貧しい人間ではない」と、自分を美化しようとする心の働きがあります。
いずれにしろ、女性たちの「彼を信じている」という気持ちは、彼に対する愛情や信頼ではなく、「自分の価値を損ないたくない」という自己愛にすぎないのです。
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そういう人たちは、他人の悪意やずるさにまったく気づかない鈍感な人なのでしょうか。
いえ、むしろ、ふだんは必死に他人の心を読みとろうと努力し、信じては裏切られ、人間不信に陥っている人が多いのです。
だからこそ、だまされる愚かな自分、他人を疑ってしまう自分に嫌気がさし、その反動で、あえて自分の心にふたをして、これ以上傷つかないように自分を守っているのです。
親から虐待を受けている子供は、そんな親さえもかばおうとすることが多いといいます。
恋人に何度も浮気をされているのに、相手が泣いて謝れば、その都度許してしまうという人もいます。
そういう人たちは、純粋に相手の人間性を尊重しているわけではなく、あまりにもつらい現実に疲れ果て、「自分はすばらしい人生を送っているはずだ」という虚構のイメージを守るために自分の心をごまかしているだけなのです。
ことさらに「人を信じている」という人は、そう言うことによって「自分は善良な人間である」ということを訴えようとしています。
本当は他人に傷つけられ続け、他人を信じられなくなっているからこそ、「私の人生がこんなにつらいのは、自分のせいではない」と思い込もうとして、「私は善人ですよ。さて、あなたは善人ですか、悪人ですか」と、相手に下駄を預けて人生の責任を逃れているのです。
しかし、「人を信じている」という人も、最終的に求めているものは何かというと、「相手が自分を満足させてくれること」です。
自分を愛してくれること、自分を特別扱いしてくれること、つまり相手が「自分にとって都合のよい存在」になってくれることを「信じている」のです。
「信じていた人に裏切られた」というのは、言い方を変えれば、「その人から何らかの利益をえようともくろんでいたが、えられなかった」ということにすぎません。
利益を求めるのがいけないというのではありません。人は誰も、自分の利益を求め、よい意味で互いに利用し合いながら生きているものです。
ただ、自分にも損得勘定が働いているのに、それを忘れて、自分だけが完全に純粋な人間であるかのように思い込み、「善と悪の戦い」という単純な図式で人間関係をとらえようとしているところがいけないのです。
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人付き合いとは、身もふたもない言い方をしてしまえば、「利害を調整する」ということにつきます。
自分と同じように、まわりの他人も利益を求めて生きていますので、その利害がぶつかり合えば、どこかで折り合いをつけなければなりません。
「自分は利益を求めて生きている」ということは、はっきり自覚してもよいのです。
重要なのは、「利益」という言葉のとらえ方です。「何を利益とみなすか」ということが、その人の人間性を表すといってもよいでしょう。
目先の損得にとらわれたり、卑怯な手段を使って利益をえたりしても、自己嫌悪や虚しさという大きな不利益をこうむることになります。
本当の利益とは、「自分を大切にすること」「自分の価値を高めること」であるはずなのです。
無名の画家の前に、絵を買ってくれるという人がふたり現れたとします。
ひとりは、高い値段で買ってくれるのですが、芸術をまったく理解しておらず、単なる投機目的です。
もうひとりは、安い金額しか払えないのですが、「この絵がとても気に入ったので、自分の部屋に飾って毎日眺めたい」という人です。
自分に誇りをもっている画家なら、安い値段でも、自分の絵を大切にしてくれる人のほうに売ることでしょう。
自分が求めているものが判っている人は、他人が何を求めているかも読みとることができ、「裏切られた」「だまされた」などと嘆くこともありません。
他人を信じられない人、あるいは盲目的に信じてしまう人は、「自分の絵の価値を判ってくれない人に高い値段で売りつけようとしていないか」を考え直してみてください。
自分が求めているものが正しければ、いちいち他人の態度にふり回されることもなくなるのです。
(おわり)