No.062『男女の考え方の違いを理解する』
男性と女性とでは、恋人や配偶者に求めるものが根本的に異なっているようです。
一般に、男性は、「何も言わなくても、心が通じ合う関係」に安心し、女性は、「何でも話し合い、ともに行動すること」に充実を感じます。
どちらが正しくて、どちらが間違っているということはありませんが、互いにそれを理解していないことから、男女の心のすれ違いが起こってきます。
『妻と子供のために、郊外に一戸建を買い、その返済のために仕事に明け暮れる。
数時間の通勤地獄も、激務のストレスも、「愛する家族のため」と思えば、歯を食いしばって我慢できる。
妻が家を守ってくれるから、自分は仕事に専念できる。すばらしいパートナーシップだ。子供の寝顔を見るたび、家族がいつまでも安心して暮らせるよう、明日も頑張ろうと奮い立つ。
子供が成人し、結婚もして、親としての一応の務めを果たし終える。
やがて定年退職し、残りの人生を妻とふたりで、旅行でもしながら悠々自適に過ごそうと思っていたところ、突然妻から離婚を言いわたされる』
夫は、「これまで、自分を犠牲にして家族のために働いてきたのに、なぜそんなひどい仕打ちを受けなければならないのか」と、訳が判らず、パニックに陥ります。
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『夫に家族のこと、子供のことを相談しようとしても、「仕事で疲れている」のひと言でかわされてしまう。
夫婦で楽しく会話をしたいのに、家族のことは家族みんなで話し合いたいのに、夫に何を話しかけても、返ってくる答えは、「無関心」。
やがて話しかけることにも疲れ、夫はただの「お金を運んできてくれる人」だとみなして我慢するようになる。
夫の言うことに逆らわないのは、忠誠心からではなく、「どうせ何を言っても仕方がないから」。私は、家政婦ぐらいにしか思われていないのだ。
子供が巣立っていってしまえば、お金はそれほど必要ではなくなる。自分ひとりぐらいなら、パートで働いて何とか生きていくこともできる。
もはや家族とはみなしていない夫に、今さら夫婦のような関係を求められても、何も話すことはないし、共感する部分もない。
旅行なら、何でも話し合える女友達と行った方が、よっぽど楽しい。
退職して、家で時間をもてあまし、「お茶をいれてくれ」「風呂は沸いているか」と注文ばかりしてくる夫は、「大きな子供」であり、邪魔者以外の何ものでもない』
妻にとってみれば、「ずっと文句も言えず我慢してきたのだから、これからは私の自由にさせてほしい」というわけです。
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夫は、「家族のために必死で働いてきた」と言うのですが、妻とは何も話し合わず、ともに行動もしていません。
「何も言わなくても、妻は自分を理解してくれている」と思い込み、それぞれが別々に行動をし、「夫婦の共同作業で築いたもの」が何もないわけです。
妻にとってみれば、それは「家族のため」でも何でもなく、「夫は自分のことしか頭にない」としか思えないのです。
どちらかが折れて譲歩するというのではなく、夫婦で互いに、「相手の求めていることを理解する」だけでも、破局は免れることができるのではないでしょうか。
男と女は、求めるものが違う。これは仕方のないことだ、と受け入れるよりありません。双方が「なぜ相手は理解してくれないのか」と責め合っていても、溝は深まるばかりです。
妻にとって、夫は単なる「スポンサー」にすぎなくても、やはり汗水垂らして稼いだお金を「自分の家族のために使ってくれている」のです。隣の旦那さんは、どんなにいい人であっても、決してよその家庭にお金を運んできてはくれません。
夫の苦労、無言の愛情も、少しは理解してあげるべきでしょう。
男性は、胸の奥に秘めている思いを、「口に出してしまっては、かえって嘘臭くなる」と考えているものなのです。言葉にしないからといって、決して愛情がないわけではありません。
夫は、「妻と子供を養うために、働いてやっている」のかもしれませんが、お金だけが自分と家族をつなぐ糸なのだとしたら、こんなに悲しいことはありません。
妻にとって、夫は自分でなくとも、隣の旦那さんでも、誰でもいいわけです。どうせなら、もっと稼ぎのある人の方がよい、ということになってしまいます。
やはり、「ほかの誰でもなく、自分が夫であることの意味」を妻に示さなくてはならないのではないでしょうか。
女性は、はっきりと言葉で伝えてもらうことを望んでいるのです。男同士なら、「黙っていても判り合える」関係もあるかもしれませんが、女性には、それは通じません。
仕事で疲れていても、ひと言ぐらい話す余裕はあるはずだし、少なくとも、「妻の話を聞いてあげること」ぐらいはできるはずです。
本当に家族のことを思っているのなら、自分の考えを伝え、妻の苦労も理解し、夫婦の共同作業で家庭を築いていくべきではないでしょうか。
互いに譲ることはできなくても、「自分の考えと同等に、相手の考えも尊重する」ことはできるはずです。
(おわり)