No.066『人を信頼するということ』
ある本に、思わずはっとさせられる言葉を見つけました。
「どんなに親しい友人や恋人でも、100パーセント信頼するのはよくない。信頼は98パーセントにとどめておきなさい」
これは決して、ドライでネガティブな考え方ではありません。
「相手を100パーセント信頼する」という、一見「美しい」心の裏には、「万が一にもその信頼が裏切られるなどということは、あってはならない。相手は、私の信頼に絶対に応えるべきだ」と押しつけるごう慢さも潜んでいます。
しかし、相手も人間なのですから、魔がさして、私利私欲にかられ、人を裏切ることもあるかもしれません。
誰でも一度は、他人を傷つけた経験をもっているはずです。他人の過ちを許せないなどと言う権利のある「完璧な人間」は、この世にひとりとして存在しません。
「信頼は98パーセントにとどめておきなさい」というのは、仮に相手が過ちを犯したとしても、「それを許す気持ち」のために残りの2パーセントはとっておきなさい、ということです。
たとえ裏切られても後悔しない、という覚悟をもってこそ、本当に「相手を信頼している」と言えるのです。
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「人を信じる」という言葉には、不思議な魔力があります。
結婚詐欺やデート商法に引っかかってしまう「純真」な人は、この言葉の表面的な意味だけにとらわれてしまっているのではないでしょうか。
真に相手を信頼するというより、「自分は、人を疑うような心の汚れた人間ではない」と思い込みたいために、また、他人にそう見せつけたいために、自分の頭で正しい判断を下すことなく、むやみに人を盲信してしまうのです。
あるインチキ宗教団体の教祖は、こううそぶいていました。
「信者たちから金を巻き上げれば巻き上げるほど、彼らはますますのめり込んでくる」
自分が信頼していた対象が否定されるということは、それと一体化していた自分の価値も否定されることになってしまいます。「だまされている愚かな自分」を認めたくないために、現実から目をそらし、自分に都合のいい解釈しかできなくなっているのでしょう。
誰かまわず信頼すればよいというものではなく、誤解を怖れずに言えば、相手によって「この人は、どれくらい信頼できるか」という値踏みをしてもよいのです。
街を歩いていて、いきなり見ず知らずの他人から「必ず返しますので、100万円貸してください」と言われて、「はいどうぞ」と貸す人はいないでしょう。それを「人を疑うとは、何と心のみにくい人間だ」と非難する人はいません。
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「人を信じることは美しく、疑うことはみにくい」という類型的な観念にとらわれなくてもよいのです。信じるか信じないか、ということよりもっと大切なことは、「自分の責任において、自分の頭で判断する」ということです。
「信じるなら、相手と運命を共にする覚悟で臨む」という気構えがなければなりません。
世の中には、残念ながら、信頼するに値しない人もいます。それぞれの利害関係によっても信頼度は変わってきます。
「他人を信頼できないこと」に必要以上に罪悪感をもつことはありません。
信頼できるかできないか、を自分の責任において判断することが大切です。
自分を「純真な人間」だと思い込んでいる人には、「悪いことはすべて他人のせい」だとするきらいがあります。不幸の原因を、すべて「こんなにも純粋な自分の心を踏みにじった他人が悪い」と思うことによって、責任を逃れようとしているのです。
あなたにも、「心から信頼できる人」が何人かはいることでしょう。
それはすばらしいことですが、あくまで仮定の話として、想像してみてください。
万一、相手に裏切られたとしたら、「許せない」と思いますか。もしそうなら、それは本当の信頼ではありません。
裏切られて憎むくらいなら、はじめから「信頼している」などと気取ったことを言うべきではありません。
「たとえ裏切られても、自分の意志で信頼していたのだから、後悔はない」と思えてはじめて、「信頼」と呼べるのです。
(おわり)