恋人に何度も浮気をされ、裏切られているのに、好きだから許してしまう。
恋人に暴力を振るわれたり、ひどい言葉を浴びせかけられたりしているが、好きだから従っている。
最近、恋人の自分への愛情が冷めたようで、悔しい。文句を言いたいが、よけいに嫌われるのが怖いから我慢している。
愛に悩み、苦しんでいる人はたくさんいます。
そういう人たちは、「好き」という言葉の意味を勘違いしているのではないでしょうか。あるいは、自分の感情にふたをして、ごまかしているのです。
自分にとって「好き」とはいったい何だろうか、ということを考え直してみてください。
身もふたもない言い方をすれば、相手の美点と欠点とをはかりにかけて、美点のほうが大きいと思えば、それは「好き」であり、欠点のほうが大きいと思うのなら「嫌い」だということです。
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恋人や友人に対し、はっきりと言いたいことが言えない。
本当は甘えたいのに、相手に迷惑をかけまいとして、欲求を抑えてしまう。
必要以上に他人に気を遣ってしまい、結局、「私はこんなに我慢しているのに、その気持ちを誰も理解してくれない」と不満を募らせてしまう、という人がいます。
他人の気持ちを思いやり、気を遣ってあげることは、それだけをとり上げて考えれば、よいことです。
よいことをしているのに、なぜ不満を感じるのでしょうか。それは、率直に言って、本当に他人を思いやってはいないからです。
相手のために気を遣っているのではなく、自分が嫌われるのが怖いからご機嫌をうかがっているにすぎないのです。
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どんなに偏差値の高い大学に入っても、何かを学びたいという意志がなければ、価値はありません。
自分と別れたがっている恋人を暴力で脅したり、泣きついたりしてつなぎ止めたりして、「付き合っている」という体裁だけをたもっても、愛されていなければ意味はありません。
学歴が高い、高い給料を得ている、恋人がいる、などという表層的な現象がうまくいっていることよりも、自分がどういう考えに基づいて生きているのかということのほうが大切です。
他人に見せびらかすために、どんなにきれいな服装で着飾ろうとも、それを他人がどう思うかということは、あくまで他人が決めることであり、自分が決められることではないので、いつまでたっても心は安らぎません。
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嫉妬は、適度であれば、恋愛のスパイスとなります。しかし、恋人が自分以外の異性と話をすることも許さない、というような強すぎる嫉妬は、かえって恋愛の価値をおとしめることになります。
強い嫉妬を感じる人は、自分に自信がないから、相手に見捨てられることを怖れているのでしょう。
実際に恋人に浮気をされた経験があり、二度と裏切られないために、監視を強化しなければならないと考えているのかもしれません。すなわち、「浮気をするような相手が悪いのだから、仕方がない」というわけです。
浮気をされるから、ますます疑り深くなり、相手を束縛しようとし、煙たがられて、相手の心は離れていってしまう、という虚しい繰り返しです。
恋愛は楽しむためにするはずのものなのに、まるで相手を疑うためだけに付き合っているような人がいます。
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他人から敬遠される人の代表格は、「自分を押しつける人」です。
友達なのだから、何でも相談してほしい。恋人なのだから、何でも包み隠さず話してほしい、自分を信用してほしい……。
一方的に友情や愛情を押しつける人は、たいてい、それが相手の負担になっているということに気づいておらず、ただ「仲よくしたい」という善意のつもりで行っているのです。
まだ付き合いの浅いうちから、「私と永遠の友情を結びましょう」などと要求されるのは、相手にとっては窮屈なことです。「私を裏切ると許さないぞ」と脅迫されているように感じてしまうのです。
しかし、友情を押しつけている本人は、それを好意だと思いこんでいるので、相手に拒絶されたときには、自分の純粋な気持ちが踏みにじられたように思い込んで、恨みをもってしまいます。
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自分はいつも損な役回りばかり演じている。誰も自分の気持ちなんか分かってくれない。他人から傷つけられたせいで、私は不幸なのだ……。
「なぜ他人は、もっと私を尊重してくれないのか」という不満を抱えている人も多いことでしょう。
しかし、ここで冷静になって、この言葉そのものがはらんでいる矛盾に気づかなければなりません。
「なぜ他人は私を尊重してくれないのか」と疑問に思っているということは、自分も他人の気持ちや考えが分かっていないということです。
そうです、他人の心は分からなくて当然なのです。自分は他人の心が分からないのに、他人は自分を理解してくれるべきだ、という主張は、道理にかないません。
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私たちは、ときに、わざと他人を拒絶し、「私は、人から愛されたいなどとは考えていないんだよ」という素振りを見せてしまうことがあります。
しかし、他人を拒絶してしまうのもまた、「愛されたい」という過剰な意識をもっている証拠です。
小学生ぐらいの男の子は、好きな女の子の気を引きたくて、わざと意地悪をします。
年ごろの娘が父親を毛嫌いするようになるのは、異性への性的関心が芽生えるからです。
卑屈なほどに遠慮深く、腰の低い人は、他人への激しい敵意を秘めています。
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好きな人ができても、何を話せばよいのか判らない、どう接すればよいのか判らない、と悩んでいる人はたくさんいます。
他人を愛するとは、具体的に何をどうすることをいうのでしょうか。
「どうすれば相手が喜んでくれるのかが判らない」という人は、自分が何を望んでいるのかが判っていないのです。
「愛は要求するものではない」と言いますが、人が付き合うということは、互いに何かを要求し合うことであるのは事実です。
他人に要求すること自体が悪いのではありません。相手のことを考えず、感謝の気持ちもなく、自分の利益のためだけに一方的に要求するのがいけないのです。
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未来に希望を抱くことは、自分を向上させるエネルギーとなります。
しかし、「希望」は、現状の不満から目をそらすための言い訳に使われることもあります。
いい学校に合格すれば、いい会社に就職すれば、理想的な恋人を見つければ、あの憎い人さえいなければ……。「こうすれば、自分は幸せになれるのだ」と、仮定の話ばかりして、現実を見ようとしない人がいます。
自分は貧乏だから不幸なのだ、と思っている人は、たとえ金持ちになっても幸せにはなれないでしょう。
貧乏は悪いこと、裕福はよいこと、と較べてしまっているところに問題があるのです。それは幸不幸の問題ではなく、他人との競争意識であり、自分さえよければよいという利己心にすぎません。
そういう人は、裕福になれば、逆に貧しい人を見くだす嫌味な人間となるだけです。
私たちは、ついまわりの他人と較べて、自分の不運を嘆いてしまいます。較べることによって人間の価値を決めつける愚かさが、私たちを苦しめるのです。
私は彼よりも裕福である、私は彼女よりも美人である、私はあの人よりも健康である……。較べてしまった途端、人間の価値は、数値によって計られるモノに成り下がってしまいます。
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人を愛することは、無条件にすばらしいことです。
しかし、この愛という言葉の不思議な魔法が、ときに私たちを惑わせ、苦しめることもあります。「愛している」という金科玉条をもち出せば、何でも正当化されるように思えてしまうのです。
「私はあなたを愛しているのに、なぜそれに応えてくれないのか」
「こんなにも愛しているのに、どうして私は報われないのか」
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