No.131『無力な自分を受け入れる』
人は、生きているだけで価値がある。誰でも、幸福を見つけることができる。よく聞かれる言葉ですが、頭では判っていても、なかなか実感として受け入れることができない人も多いことでしょう。
自分を不幸だと思い込んでいる人は、「ささやかな幸せに目を向けなさい」と言われれば、「私は、小さなことで満足しなければいけないような、ちっぽけな人間だということか」と、逆に自分が軽んじられたように感じてしまうのでしょう。
それは大きな誤解です。
幸せな人とは、おしなべて小さな幸せに満足できる人のことです。他人と較べて特別に恵まれた環境にあることでしか満足を感じられない人は、本当に幸せではないのです。
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「自分は何の取り柄もない人間だ」とことさらに卑下する人は、「本当は、もっと立派な人間であるべきなのに」と、むしろ自分を過大評価しているのです。
ありのままを自分を受け入れることができないから、「これは本当の自分ではない。私は、もっと高い理想をもって生きているのに、まだ実現できていないだけなのだ」ということを示して、他人から認めてもらえないことへの不安をごまかしているのです。
ご立派な人間にならなくてもよいのです。自分の欠点をはっきり自覚してさえいれば、それで充分です。他人はそれほどあなたに完璧を求めてはいません。
何の取り柄もなくても、弱くてちっぽけなままでも、そんな自分を受け入れることから、向上心が生まれます。
自分を嫌ったまま、「このままではいけない。何とか自分を変えなければ」と必死で自分にムチ打っても、いたずらに精神を疲れさせ、よけいに自己嫌悪を深めるだけです。
人間は誰も無力なものです。本当に自分の無力さを知っている人は、「どうせ他人は皆、こんな私をバカにしているのだろう」などとは考えず、自分を支えてくれている他人に感謝し、喜びの中で生きられるはずです。
他人に感謝することを「他人に優位を奪われること」だと勘違いしてはいけません。
いくら他人に感謝しても、何かが減るわけではないのです。むしろ、心に余裕が生まれ、ますます自分を好きになれるものです。
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自分に自信のない人は、怠惰に生きているわけではなく、むしろ真面目で几帳面な性格であることが多いものです。つねに完璧でなければ他人は受け入れてくれないと思い込んでいるのです。しかし、あえて言うなら、そういう思い込みこそが最大の欠点です。
自分に悪意がないのなら、どんな性格でも、悪い性格というものはありません。
引っ込み思案でも、口下手でも、不器用でも、自分がよい性格だと思えば、それはよい性格なのです。唯一、よくない性格というものがあるとすれば、それは、「自分を受け入れられないこと」をいいます。
自分をよい性格だと思うことは、けっしてごう慢な開き直りではありません。
本当にごう慢な人は、自分をごまかし、虚勢を張って、自分が過大評価されることを求めるものです。
自分の性格を素直に認めることができれば、その時点で、その人は充分に素直な性格であると言えます。たとえ好ましくない欠点があったとしても、自分を愛することができれば、自然に直るものです。
釈迦は「人生は苦なり」と言いましたが、これは、だから人生は無意味だ、という悲観的な意味ではありません。
苦しみから逃れようともがき苦しむことだけに一生を費やすのは、虚しいものです。苦しみから逃れることが幸せなのではありません。
まず、人生に苦はつきものだ、ということをありのままに受け入れ、その中でひとつでも多くの幸せを見いだすことに、生きる喜びがあります。
自分に与えられたささやかな幸せをかみしめてください。
ささやかな幸せに満足するということは、けっして人生に妥協することではありません。それどころか、小さな幸せに満足すること以外に、人間の本当の幸せはないのです。
(おわり)