No.135『幸福は結果である』
衣食住のすべてにおいて満たされ、人生にそれほど大きな障害はないが、なぜか心は満たされない。不幸だとは思わないが、幸福も感じられない。
現代では、このような「なんとなく不幸」という人たちが増えています。
法のもとでは皆平等であり(少なくとも建前上は)、職業の選択や婚姻において身分の差別を受けることもなく、お金さえあればたいていの物は手に入ります。
だからこそ、生きるために死にもの狂いになる必要もないし、生命の喜びが心の底から沸き上がるということもめったにありません。
欲望にかぎりはなく、ひとつ満たされれば、またあらたな欲望が生まれます。
いくら満たされても、まわりの他人も同程度に満たされているので、それを当たり前としか思えず、特にありがたみも感じられません。
幸福は、欠乏なくしては感じられないのです。逆にいえば、欠乏こそが幸福のもとなのです。
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心理学者のフランクルは、「幸福の追求は自己矛盾であり、幸福を妨げる」と言っています。幸福を求めれば求めるほど幸福は逃げていくというのです。
これは悲観的、絶望的な考え方のように思われそうですが、けっしてそうではありません。
「幸せになりたい」と願うことは、人間の当然の権利であり、意義のあるものです。
しかし、幸福とは、何かの目標に向かって懸命に生きていることの結果として得られた抽象的な状態のことであり、幸福そのものを目的とすることはできません。
幸福感には限度がありませんので、どこまで求めてもけっして得ることはできず、永久に満たされない不満に苦しめられることになってしまいます。
幸せな人生とは、喜びの多い人生のことでしょう。
しかし、喜びとは、心の内側から自然に沸き上がる感情であり、意図的につくり出すことはできません。
さあ今から怖がろう、今から怒ろう、と意識してもできないのと同じように、喜びそのものも欲することはできません。
生きていく上での目的は、「好きな仕事に就きたい」「他人の役に立ちたい」などという具体的なものでなければなりません。幸せは、目的ではなく結果であり、やってみなければ判らないのです。
「幸せになりたい」ということを忘れて、一心不乱に何かに取り組んでいるとき、または自分が生かされている自然の恵みに思いを致すとき、幸せはふと感じられるものなのです。
幸福を求めれば求めるほど、幸福という幻想にとらわれ、逆に不幸ばかりが目についてしまうものです。
もちろん誰でも幸福を願うものですが、はじめから幸福を目的とするのは、順序が逆です。
私たちにできることは、できるかぎりのことをやってみて、結果的に幸福を感じられたなら感謝するということだけなのです。
(おわり)