No.144『求めれば遠ざかる』
浮気を繰り返す人やすぐに暴力をふるう人、金品を貢がせる人など、ろくでもない恋人に苦しめられながらも、なかなか別れられないという人がいます。
たとえ別れられたとしても、懲りずにまた同じような恋人を選んでしまうのです。
「他人が自分をどう扱ってくれるかによって、自分の人生が決まるのだ」とかたくなに信じ、常人には想像もできないような強い忍耐力をもって、ひたすらに「相手が心を入れ替えて自分に尽くしてくれるようになる」ことを待っています。
はたの人たちは、「いったい何が楽しくて付き合っているのだろう」と首をかしげるのですが、当人は、お人好しすぎるほどに相手を信じ、自分を犠牲にし、傷ついていくのです。
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そういう人は、「私は一途に相手を信じ、愛しただけだ」と、自分を美化しすぎるきらいがあります。
「信じる」といっても、相手を尊重し、相手の幸せを願っているわけではなく、最終的に求めているものは、「私を愛してほしい」という自分本位の欲求にすぎません。
愛情を求めてやまない人は、他人を信用できない人です。
信用していないから、目に見える形で示すことを求め、つねに確認していなければ気がすみません。
そして何より、自分の愛情を信用していません。
自分が相手を「愛している」といっていることが、本当の愛情ではなく、相手を支配したいというエゴにすぎないということがうすうす判っているので、それを打ち消すために、見せかけの愛情を押しつけようとします。
その押しつけが、「私はこんなにも愛しているのに、なぜあなたは、それに応えてくれないのか」という非難へと変わります。
他人を攻撃する気持ちが強ければ強いほど、自分が他人から攻撃されることへの怖れも強くなります。
そして、自分が他人を尊重できない人間であることに引け目を感じているので、「相手も自分と同じように、他人を尊重できない人間なのだ」と、心の中で軽蔑することによって安心をえているのです。
愛というものは、水や空気と同じように、人間にとって欠かせないものであることに疑いの余地はありません。愛のない人生など生きる価値はないといってもよいでしょう。
しかし、愛は求めれば求めるほど、自分から遠ざけ、その価値をおとしめてしまうものなのです。
誰かに愛されたくて愛されたくて仕方がない、と苦しんでいる人は、「他人に愛を要求し、望み通りの愛がえられた人はいない」という真理を心に留めておいてください。
世の中の誰ひとりとしてなしえないことなのですから、自分ができないからといって悲観することはないのです。
タバコをやめられない人は、「もしタバコをやめてしまったら、このイライラをどうやって鎮めればよいのだろう」と疑問に思うことでしょう。
しかし、イライラするのは、ニコチン中毒の体が禁断症状を起こすからで、もともとタバコを吸わなければ、「タバコが吸いたい」という欲求不満を感じることもないのです。
ヘビー・スモーカーの人は、タバコを吸い続けているために生じたストレスをタバコによって癒している、というまったく無駄なことをやっているわけです。
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他人に愛情を求めてばかりいる人も、愛がえられれば満足なのかというと、そうではなく、またすぐに禁断症状を起こし、愛情を求め、苦しみ、その欲求は強くなっていく一方です。
「苦しいから求めてしまう」のではなく、「求めるから苦しんでしまう」のです。
他人がどれだけ自分に関心をもってくれているかを監視し、警戒し、見捨てられないために必死に取りはからうことに人生の多くの時間を費やしても、疲労感と虚しさが残るだけです。
人生の目的が「他人に見捨てられないこと」なのだとしたら、はじめから誰とも付き合わなければよいという結論にたどり着いてしまいます。
「つねに誰かに愛されていなければ気がすまない」という人は、本当の愛の喜びを知ることはできず、逆に冒頭に挙げたような心ない人に利用されるばかりです。
少しの勇気を出して、「愛を求めない人生」を目指してみてください。
苦しいのは、禁煙と同じように一時的なものです。
タバコをやめれば、ストレスそのものも減少し、空気も食べ物もおいしく感じられるようになります。
愛に満たされた人生は、けっして直接求めることによってはえられません。
求めないからこそ、その尊さに感謝し、喜びをしみじみと実感することができるのです。
(おわり)