No.152『自分の幸せを自分で判断する』
人は誰でも、幸せを求めて生きています。
しかし、なかなか思い通りの幸せは手に入らず、落胆したり、悲しみに打ちひしがれたりすることもあります。
幸せを求め続けることは、人間として当然かつ重要な権利です。未来への希望がなければ、人は生きていけません。
しかし、「こうなれば幸せ」という考えは、「そうでなければ不幸せ」と、自己の根元的な価値を否定する危険もあわせもつことになります。
自己を否定したまま幸福を求めることは、えてして虚栄や高慢に惑わされがちです。
幸せが手に入らないからといって、ひがんだり、自分が嫌いになったりするのであれば、そもそもの求めていた幸せが間違っていたのでしょう。
自分の思い通りにならないからといって他人を憎んだり、自分より幸福そうな他人を妬んだりするのであれば、自分の求めていたものが「人に見せるための人生」ではなかったかと疑ってみる必要があります。
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もしあなたが、なかなか振り向いてくれない異性に対して、愛情が転じていら立ちや憎しみを感じるのであれば、あなたは、もともと相手のことを好きだったのではなく、「恋人をつくって、他人に自慢したい」ということを求めていたにすぎないのです。
本当に相手を愛しているならば、たとえ相手がそれに応えてくれなくても、自分の人生に喜びを与えてくれた相手への感謝という土台は揺るがないでしょう。
「してくれないこと」ばかりを数えて嘆くのは、相手のありのままの存在価値を認めていない、つまり愛していないということなのです。
もしあなたが、自分よりも先に昇進した同僚に嫉妬し、その同僚をおとしめようとするならば、あなたには、自分の仕事への誇りも愛着もなく、ただ「出世して威張りたい」という浅ましい欲求しかないのです。
もちろん、恋人がほしい、出世がしたいという願望自体は、悪いことではありません。
それが、自分の心からの幸福の欲求にもとづくものであるならば、構わないのです。
しかし、何の信念も矜恃もなく、ただ優越感を味わいたいからという理由で、形ばかりの幸福を手に入れても、虚しさが残るだけです。
「他人から認められたい」という欲求は、他人の物差しによって自分を測ろうとすることです。
しかし、他人の価値基準は、人によって異なるのですから、どういう基準に当てはめてみても、誰かからは否定されるということになってしまいます。
自分の人生の価値は、自分の基準で判断すればいいし、またそうするしかないのです。
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自分が求めているものが、本当の幸せであるかどうかを見極めるには、「それを他人に自慢し、認められたいと思うか」と考えてみれば判ります。
他人から認められることは、おおいに喜ばしく、感謝すべきことですが、他人に認めてもらわなければ満足できないのであれば、それは本物の幸せとは呼べません。
人間は、自分のありのままの欲求に従って行動してもよいのですが、その欲求が、心の底から沸き上がる喜びと正当な目的意識にかなっていることが前提です。
恋人を非難するために恋愛をするのではないし、同僚をおとしめるために仕事に励むのでもありません。
本来の目的から外れた、ゆがんだ欲求に身をまかせてしまっては、一時的に気は晴れても、自己嫌悪はいっそう深まることになるでしょう。
幸せは、無理をしてつくり出すものではなく、心のいっさいをはぎ取って、奥の奥から聞こえてくる声に耳を傾けることから生まれるものです。
「喜びとは何か」を静かに自分に問いかけてみてください。
真に幸福感に満たされた人は、けっしてそれを他人にひけらかしたり、他人を見くだすための道具に使ったりしようなどとは考えず、自分の心に大切にしまっておきたい、または他人にも分け与えてあげたいと思うものなのです。
(おわり)