No.153『行動は能動的に、心は受け身に』
愛情の深さとは、他人からどう扱われるかではなく、自分が他人とどう接するかという態度によって表れます。
好きな異性ができたとき、高価なプレゼントを贈ったり、せっせと世話を焼いたりして、何とか相手の好意を引こうとする人もいるでしょう。
しかし、それは厳密に言えば、相手への愛情ではなく、自分に関心をもってほしいという欲求にすぎません。
何とか相手を振り向かせよう、相手に自分を好きだと言わせよう、と積極的に働きかけることを愛情の深さだと勘違いしてはいけません。
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本当に人を愛している人は、もっぱら受け身に徹するものです。
「受け身」といっても、自分の欲求や感情を押し殺すことでも、主体性をなくして相手の言いなりになることでもありません。
相手への好意や感謝の気持ちは精一杯表現するのですが、それだけで目的は達成されており、相手に何も求めないのです。
つまり、よい意味で「自分のことしか考えていない」のです。「自分が何をすべきか」ということが、愛情のすべてなのです。
対人関係の苦手な人ほど、他人のことばかり考えているものです。あの人に嫌なことを言われた、なぜあの人はああいう態度をとるのだろう、あの人は自分を嫌っているのではないか……。
他人のことばかり考えていながら、他人を尊重する気持ちも思いやる気持ちもなく、結局、自分が傷つきたくない、他人に負けたくない、と自分を守ることしか頭にないのです。
自分としっかり向き合っている人は、どれだけ受け身であっても、流されることはなく、他人に利用されることもありません。
人を愛すれば愛するほど、受け身になれるものです。自分を大切にしているから、自分を押しつけようとせず、他人を尊重し、受け身になれるのです。
嫌われるのが怖いから、いっさい自己主張をせず、相手の言いなりになるだけという人は、表面上は受け身に見えても、心の中では激しく相手に愛情を要求しています。
行動は受動的でも、心の中は、いつまでも相手をつなぎとめておきたい、相手を支配したいという欲求でいっぱいなのです。
恋人に不満があったり、傷つけられたりして、「相手の気持ちが判らない」と言って嘆く人がいます。
しかし、そういう人の言う「相手の気持ちが判らない」というのは、「なぜ自分を愛してくれないのかが判らない」という非難にすぎません。
「相手は自分を愛してくれて当然である」という押しつけがあるから、その要求がかなわないという現実を受け入れられないのです。
いくら相手に遠慮し、自分の感情を抑えて我慢していても、それは相手の愛情を得るための駆け引きの手段にすぎず、相手の心を操作したいという支配欲求をもっていることに変わりはありません。
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真に愛情にあふれている人は、行動は能動的、積極的であっても、心は受動的なのです。
相手に自分の好意を表現するのは、自分が好かれたいからではなく、相手が愛される価値のある人間であるということを伝えたいからです。
相手のために何かをしてあげるのは、感謝してほしいからではなく、相手が喜ぶのがうれしいからです。
好きな人ができても、自分の愛情は伝えたいが、厚かましいと思われたくない、拒絶されて傷つきたくない、と悩んでいる人もいるでしょう。
「押すべきか引くべきか」の二者択一で迷っていては、いつまでたっても答えは出ません。
もちろん、黙っていては好意は伝わりませんし、何も行動を起こさないのでは愛情とは呼べません。
積極的にアクションは起こすべきです。しかし、自分の気持ちを押しつけず、心はあくまで受け身であるべきです。
本当に相手を思いやり、その愛情が深ければ深いほど、受け身になれるものなのです。
(おわり)