対人関係でトラブルが生じたとき、私たちはつい、「どちらが間違っているか」で決着をつけようとしてしまいます。
恋人が私の気持ちを判ってくれない、友人に冷たい態度をとられた、同僚と仕事のやり方が合わない……。
相手の間違いをただし、説き伏せることができれば、一時的に気は晴れます。
しかし、まわりのすべての人と正当性を争って対決し、勝利をおさめたとしても、いったい何が残るでしょうか。
敗れた側には恨みが残ります。他人から恨まれることは、自分にとっても損なことです。
まわりのすべての人を打ち負かせば、すべての人から恨みをかいます。それが果たして幸せといえるでしょうか。
豊かな人生を送るためには、「正しいこと」よりも大切なものがあるのです。
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異性を好きになったときは、「相手は私をどう思っているのだろう」「どうすれば私を好きになってくれるだろうか」と頭を悩ませるものです。
友人と付き合っているときは、「相手は私を信頼してくれているだろうか」「この友情はいつまでも続くものだろうか」ということが気になります。
他人の気持ちをくみ取ろうと努力するのは、人付き合いにおいて重要なことです。
優しさも思いやりも、「相手は何を望んでいるのだろうか」「どうすれば相手のためになるだろうか」と、他人の立場になって考えることから生まれます。
しかしときに、私たちは、「相手は私に興味がないのではないか」「嫌われてしまったのではないか」などと他人の気持ちばかりが気になって、いら立ったり落ち込んだりしてしまいます。
人付き合いが苦手な人の悩みは、「他人が何を考えているのか判らない」ということでしょう。
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ある20代の女性の悩みです。
これまで何人かの男性と付き合ってきたのですが、いつも嘘をつかれたり、浮気をされたりするというのです。
彼に「昨日、何してたの」と尋ねると、「別に。仕事してたよ」という答え。
「ほかの女性と歩いているのを見たと言う人がいるよ」と問いつめれば、「ただの同僚だよ。そんなに俺のことが信用できないのか」と逆に怒られて、別れることになる。
毎度、同じようなパターンの繰り返しなのです。
ただの同僚なら、はじめからそう言ってくれればいいのに。嘘をつくということは、何かを隠していると疑ってしまうのも当然ではないか。
恋人同士は、何でも包みかくさず話し合える間柄でありたい。彼のことを信じたいのに、何度も嘘をつかれて傷ついた経験があるから、どうしても信用できない。
どうすれば男性のことを信用できるようになるだろうか、と悩んでいるわけです。
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——せっかく好きな人ができたのに、うまく自分の好意を伝えられなかった。
——友達をつくりたいと思うのに、自分から他人に話しかけることが苦手だ。
そういう人は、「何を話せばよいのか判らない」「変なことを言ってしまって恥をかきたくない」と、つい尻込みしてしまっているのではないでしょうか。
「何かを話さなければいけない」と考えると、まるで自分が相手に試されているように感じて、失敗を怖れてしまうものです。
いきおい、無理をして必死に自分をアピールしようとして、「押しつけがましい人」という印象をもたれてしまいがちです。
プロのタレントのように流ちょうにしゃべったり、乗りの良い会話で盛り上げようとしたりする必要はないのです。
会話の目的は、自分の考えや気持ちを伝えるということもありますが、それ以上に大切なのは、「きくこと」です。
「きく」とは、「相手の話を聴くこと」と「相手について訊くこと」のふたつの意味があります。
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会社員のAさんは、同僚のBさんにいつもイライラさせられています。
Bさんは物覚えが悪く、なかなか仕事を覚えられないのです。
Aさんが3つの仕事をしている間に、Bさんはひとつの仕事しかできません。結局、Aさんがその尻拭いをするはめになるのです。
「もっと早くしてほしい」とAさんは注意するのですが、気の弱いBさんはもごもごと返事をするだけです。そのはっきりしない態度もAさんの神経をいら立たせます。
Aさんがあまりにも厳しく当たるので、Bさんは怖れて萎縮するようになり、よけいに仕事のミスも多くなってしまいました。
Aさんはほとほと疲れ果て、Bさんの顔を見るのも嫌になってしまいました。
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メールという新しいコミュニケーションの手段が普及するにつれて、それに関する新しい悩みや問題も発生するようになりました。
「恋人がメールに付き合ってくれない」「友人に長い文章のメールを送ったのに、返事がひと言だけだった」などという嘆きは、よく聞かれます。
メールは、相手の都合を考えずに、いつでも送れる便利なものです。
直接会ったり電話をかけたりするのであれば、食事時や夜間、相手が忙しいときなどには控えるといった配慮が必要ですが、メールは、相手の都合のよいときに見てもらえばよいので、時間帯を気にせず勝手に送りつけることができます。
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ある寺の門前に住む老婆が、雨が降ったといっては泣き、晴れたといっては泣いて暮らしていました。
寺の僧が「何がそんなに悲しいのか」ときいたところ、老婆はこう答えました。
「私にはふたりの息子がおり、ひとりははき物屋を、もうひとりは傘屋をやっております。雨が降ればはき物が売れないだろう、晴れれば傘が売れないだろうと、息子たちがかわいそうで毎日泣いているのです」。
僧は、「いや、雨が降れば傘が売れ、晴れればはき物が売れるのだから、どちらもよろこんでよいのだ」と諭したそうです。
この老婆のように、ものごとの悪い面だけを見て、悲しんだり落ち込んだりしている人はいないでしょうか。
人生には、つらいこと、悲しいことはたくさんありますが、事実そのものにはよいも悪いもなく、ただ事実としてあるだけで、それに意味づけをするのは人間です。
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悩みや苦しみとは、「自分の思い通りにならない」という不満から生じます。
自分がある人のことを好きになっても、相手も同じように自分を好きになってくれるとはかぎりませんし、自分の仕事の能力を自分が思っているほど上司は評価してくれないものです。
自分の欲求と現実とのずれが、苦しみとなるのです。
だからといって、いっさいの欲求を捨て去れば苦しみから逃れられるのかというと、そんなことはありません。
望んだものが手に入らないのが悔しいからといって、はじめから努力を放棄するのは、単なる怠惰であり、問題を根本的に解決したことにはならないのです。
人間が成長するためには、適正な欲求は必要です。
何かを欲するのはよいのですが、それに執着し、欲望の奴隷となってはいけないのです。
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自分に自信がもてず、自分を責めてばかりいる人は、「〜しなければならない」という言葉を口癖のようによく言います。
言いたいことをはっきり言わなければならない、もっと勉強しなければならない、嫌いな人とも付き合わなければならない、何か打ち込めるものをもたなくてはならない……。
人生は「しなければならないこと」の連続で、それらのノルマをこなすことに疲れ果て、まったく楽しむ余裕がないのです。
そして、懸命に努力しても報われないことを悲観し、よけいに自信を失ってしまう、という繰り返しなのです。
そういう人は、何ごともいい加減にすませることのできない、真面目な努力家なのでしょう。それは立派な長所です。
「しなければならないこと」の内容は、もっともなことばかりであり、たしかにそうすべきなのです。
しかし、それがかえって自分を苦しめるのであれば、少し考え方を変えてみる必要があります。
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質問という形式をとりながら、自分の意見を押しつける人がいます。
口論になったとき「私が悪いっていうの」と言ったり、ちょっと邪険に扱われると「そんなに私のことが嫌いなの」などと言ったりする人です。
「私が悪いの」ときかれて、「別に悪いとは言ってないけど……」と答えようものなら、「じゃあ、悪くないのね」と開き直られます。
「私が嫌いなの」ときかれて、「はい、嫌いです」と答えられる人は、なかなかいません。それが判って尋ねているのです。
相手にかぎられた選択肢しか与えず、自分の望むとおりの答えを押しつけ、あたかもそれを相手が自ら選んだように思わせる策略なのです。
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