No.277『幸せとは、心に余裕をもつこと』
「ここに金貨の入った袋がふたつあります。片方の袋には、もう一方の2倍の金貨が入っています」
ある慈善家があなたの前に現れて、こう言ったとします。
「どちらかひとつを選んでください。それを差し上げましょう」
あなたは、左の袋を選びました。中には10枚の金貨が入っていました。
「袋を変更することもできますよ。どうしますか」
左の袋が金貨10枚だったということは、右はその倍の20枚か、半分の5枚のどちらかです。
さて、あなたは、そう言われたとき、右の袋を選び直すでしょうか。
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ここが、幸福と不幸の分かれ道です。
いったい幸せな人とは、「左の袋を選んでよかったのだ」と思える人のことであり、不幸な人とは、「右を選んだほうがよかったのではないか」と悩み、くよくよと後悔する人のことでしょう。
右の袋を選び直すなら、はじめから右を選ぶのと同じことです。
そういう人は、もしはじめに右を選んでいたなら、やはり左に変更していたでしょう。
右の袋が左の倍だったのか、半分だったのか。それはたいして重要ではありません。
どちらにしろ、多い金貨が入っているほうの袋を選ぶ確率は2分の1なのです。
重要な問題は、どちらを選ぼうかと考えているうちはわくわくしていたのに、金貨10枚という具体的な数字を示されれば、それがとたんに色あせて見え、新たな欲が出てきてしまうということです。
もしふたつの袋から選ぶという方法ではなく、単に「金貨10枚を差し上げましょう」と言われていれば、悩むことも悔やむこともなく、心からありがたいと思えたことでしょう。
多いほうを選ばなかったからといって、損をしたのではありません。金貨10枚をもらえたことがまるまる幸運だったのです。
もっと金持ちの家に生まれたかった。もっと美しい容貌に生まれたかった。もっと頭がよかったら。もっと親に愛されていたら。
不運を嘆き、「別の人間に生まれ変わりたい」という叶わぬ夢を見ている人もいるかもしれません。
しかし、「今の自分の境遇が気に入らないから」という理由でそう思うのであれば、仮にその願いが叶ったとしても、神様はきっと、そのごう慢さに気づかせるために、半分の金貨の袋、すなわちさらに厳しい運命を与えるでしょう。
そのときになって、はじめて自分がどれだけ恵まれていたかを思い知るのです。
失ってはじめて気づくことを思えば、失わないうちに気づくことがどれだけ幸せかが判ります。
「貧しい家に生まれるのと、生まれてすぐに病気で死ぬのと、どちらを選ぶか」と言われれば、誰でも貧しい家に生まれることを望むはずです。
「今、自分は幸せである」と思えなければ、どれだけ別の人生を選び直しても、崖のふちを歩いているような不安に悩まされ続けるだけです。
幸せは、「もっとほしい」と願うことでえられるのではありません。
「もし、今より恵まれない状況にあっても、幸せを感じられるだろうか」と考えてみることで、現在の幸せがくっきりと浮かび上がってくるのです。
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誰かを憎んでいる人は、「世の中には、もっとひどい仕打ちを受けているのに、それを許している人もいる」と考えてみてください。
「毎日が退屈で、将来の希望もない」とこぼしている人は、「もし自分が明日死ぬと判ったら、何をするだろうか」と考えてみてください。
「もっと恵まれた状態にあれば」という欲望には、きりがありません。
「今でも充分に恵まれている」と思う以外に、幸せになる方法はないのです。
「恋人がもっと私を愛してくれたらいいのに」といくら願っても、よけいに愛されることはありません。
要求してえられた愛は、しょせん本物の愛ではないのですから。
逆に「もう充分です。ありがとう」と感謝すれば、相手はもっと愛したいと思うようになるのです。
自分の心に余裕ができると、他人に優しくなれます。
他人に優しくできる人は、感謝され、認められ、ますます心に余裕が生まれます。
心に余裕をもつために、背伸びをしたり、自分をごてごてと飾りつけたりする必要はありません。
電車で席を詰めて座るように、ちょっと隙間をあけてやればよいのです。そこには、まだまだ多くの幸せが入り込む余地があるのです。
私たちの心には、自分でも気づいていない余分の隙間がたくさんあるのです。
(おわり)