No.282『自分の正直な気持ちに目覚める』
ある男子大学生は、毎日が孤独で耐えられないと悩んでいます。
大学に行っても話す友達はおらず、ただ黙々と授業を受けるだけ。昼休みも食堂の隅で独りぼっちで食事をとります。
まわりの学生たちを見ていると、なぜあんなに明るく生き生きとしていられるのか、不思議でなりません。
自分も輪の中に入りたい。誰か声をかけてくれないだろうか。
そう密かに願いつつも、もし本当に声をかけられても、うまく話すことができず、変なやつだと思われるだろう、という不安も拭えません。
もっと自信をもちたいと思うが、これといった才能も特技もなく、容姿も人並み以下の自分が、いったい何を心のよりどころにすればいいと言うのか。
考えはいつも堂々巡りで、「自分は、ほかの人たちのように楽しい人生を送ることはできないのだ。決定的に何かが欠けているのだ」という違和感だけが頭をもたげるのです。
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どうすれば、自分に自信がもてるのでしょうか。
自信とは、いわば、「自分はここにいてもいいのだ」という、どっしりとした安心感です。
「他人とうまく会話ができるか」が問題なのではなく、「他人と一緒にいても、居心地の悪さを感じない」ということが重要です。
自分に自信のない人は、心理的な「自分の居場所」がなく、つねに不安定な台の上に立っているような不安と緊張にさいなまれているのです。
友人や恋人をつくりたい。生きがいとなるような仕事や趣味を見つけたい。そして、自分に自信がもてるようになりたい。
しかし、失敗してよけいに傷つくのも怖い。
はじめの一歩を踏み出すきっかけがつかめず、ためらってばかりいる人も多いのではないでしょうか。
そういう人は、「何か新しいことをはじめなければならない」と焦るよりも、手始めにまず、「何をやめるべきか」を考えてみてください。
第一にやめるべきことは、「どうせ自分なんか」と「できない言い訳」を探して自分を責めてしまうということです。
どうせ私は何の取り柄もないから。どうせ私は臆病で引っ込み思案だから。親がちゃんと育ててくれなかったから、私はこんな情けない人間になってしまったのだ。
自分を憐れむような言い方をすれば、自分が傷つきます。しかしそれでもなお、自分を卑下してしまうのは、「自分は特別な事情を抱えているのだから、仕方ないじゃないか」と開き直ることで楽になれる、と考えているからです。
自分の心にナイフを突き立てる痛みと引きかえに、「まだ行動を起こさなくてもよい」というつかの間の猶予をえて、安心しているのです。
しかし、そうして自分を卑下することが、ますます行動を起こす勇気をくじいているのだということに気づかなければなりません。
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自分を責める癖がついている人は、生真面目な性格である場合が多いので、「楽な道を選ぶな」と言われれば、よけいに自分を追いつめ、自分を傷つけてしまうかもしれません。「こんなに苦しんでいるのに、もっと苦しめというのか」と反感をもつ人もいるかもしれません。
「楽をしてはいけない」というのは、正確に言えば、「一見楽に見えるが、後でよけいに苦しくなるような、安直な方法を選んではいけない」という意味です。目的はあくまで、苦労することではなく、幸せになることです。
本当に楽な方法があるなら、ぞんぶんに楽をしてもよいのです。
その方法が、一時しのぎにすぎないのか、本当に心が楽になれるのかをよく見極めなければならないということです。
「どうせ自分は」という言い訳を封じれば、「なかなか行動を起こせない、情けない自分の姿」と向き合わざるをえません。しかし、それを乗り越えて、自分を認められるようになることのよろこびに較べれば、そんな痛みなど蚊に刺されたくらいにしか感じないでしょう。
自分を責めたくて責める人はいません。本当は皆、自分が好きなのです。
自分が好きだからこそ、思い通りに自己実現できないもどかしさから、やけになって自分を傷つけてしまうのです。
「本当は自分が好きなのだ」という正直な気持ちに目覚めるまで、静かに自分を信じて待ってみてください。
自分を責めることをやめれば、自信や安心感は、自然にふつふつとわいてくるものです。
「そうしなければならない」ではなく、「そうせずにはいられない」という衝動に突き上げられたとき、本当に楽に行動できるようになるでしょう。
できるできないは別として、行動を起こそうという意欲がわいたことが自信となるのです。
「私は自分が好きだ」という気持ちに気づいたら、「この自分の正直な気持ちだけは絶対に裏切らないぞ」と心に決めてください。
そして、焦らず、親鳥が卵を温めるように、その気持ちをじっくりと大切に育てていってください。
自分で自分を好きになれば、それだけで「自分は存在する価値がある」と思えるようになるのです。
(おわり)