No.291『他人に尽くすということ』
「愛されるよりも、愛するほうが幸せだ」とは、よく言われる言葉です。
それは頭では判っていても、やはり「自分だけが一方的に愛を捧げるのは、何だか損をしているような気になってしまう」「自分も愛されているという実感がもてなければ、不安で仕方がない」という人も多いのではないでしょうか。
たしかに、他人から愛されることは大切です。誰からも愛されず、認められず、自分ひとりの力だけで生きていくことは、非常に困難だし、味気ないものです。
しかし、求めたからといって愛情がえられるわけではありません。
愛情は、他人が自発的に与えてくれるものだからこそ、価値があるのです。私たちにできることは、ただその愛情に感謝することだけです。
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愛情は求めてもえられませんが、求めなければ必ずえられるというわけでもありません。
人付き合いは、ひとつの賭けだと言えます。いい人に巡り会うこともあれば、そうでない場合も多々あります。
同じ賭けなら、少しでも有利なほうに賭けるのが得策です。
「愛情を求めて、愛されることに賭ける」よりも、「愛情を求めなくても、愛されることに賭ける」ほうが、はるかに愛される確率は高くなり、よろこびも大きいのです。
「自分には何も悪気はないのに、なぜか他人に近づこうとすると、素っ気ない態度をとられたり、敬遠されたりする」という人は、そもそも、そうして他人の態度をいちいち気にして、相手を試し、身構えていることが、避けられる原因になっているのではないでしょうか。
無意識のうちに、「私があなたを尊重しているのだから、あなたも私を尊重しなさい」「あなたが私を認めてくれるなら、私もあなたを認めてもいいですよ」というメッセージを相手に送っているのかもしれません。
悪く言えば、「自己愛を満たすために、他人を利用しようとしている」のです。まわりの他人は、「利用されてはたまらない」と、遠ざかってしまうのです。
他人に愛情を求めてしまう人が感じているもっとも大きな不安は、「自分が愛するだけでは、ただ他人につけこまれ、もてあそばれるだけで終わるのではないか」ということではないでしょうか。
男性であれば、好きな女性にせっせと金品を貢いだり、女性であれば、かいがいしく男性の身のまわりの世話を焼いたりしたのに、まったく報われず、感謝もされず、挙げ句に相手は離れていった。
そういう経験のある人は、「自分だけが損をした」という虚しさを感じ、「よけいに愛したほうの負けなのだ」と思ってしまうのかもしれません。
他人に尽くすこと自体は、間違ってはいません。他人のためになること、他人の役に立つことは、おおいにやるべきです。
「他人に尽くして損をした」という人が間違っていた点は、「尽くした」という行為そのものではなく、「自分が好かれるために、他人の機嫌をとろうとした」ことです。
こびへつらってまで他人に気に入られようとした自分の浅ましさに気づかされるのが悔しいのです。
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本当に他人に尽くしている人は、ことさらに「尽くしている」などとは意識しないものです。自分がそうしたいからしているだけです。
たとえ他人から感謝されなくても、自分の目的は達しているのですから、それで満足なのです。
自分の意思で判断し、主体的に生きている人は、「自分を押し殺して他人に好かれても意味がない」ということが判っているから、「損をした」と思うような尽くし方はしません。
主体的な人ほど、限度をわきまえています。結果が思い通りにならなくても、自分の考えに従って行動を起こしたことに満足できるのです。
「自分が愛されるために、他人に尽くす」という行為は、必ず裏切られます。
愛されなくても損だし、たとえ愛されたと感じたとしても、そのような「条件付きの愛情」で心が満たされることはありません。
むしろ、「そこまでしなければ、自分は受け入れてもらえないのだ」という劣等感にさいなまれることになります。「他人にどう思われているか」がよけいに気にかかり、ゴールのないマラソンを永久に走らされているようで、心は疲れるばかりでしょう。
他人に愛情を要求してしまう人は、自分のほうがよけいに愛されることで、支配するかされるかの戦いに勝ったつもりでいるのかもしれません。
しかし、勝ち負けで考えるなら、愛されることを求める人のほうが負けなのです。自分が幸せになるかどうかの選択権を相手に譲り渡しているわけですから。自分が嫌われないように、相手の機嫌をとり、しっぽを振り続けなければなりません。
「他人から愛されるかどうかは二の次でよい。自分が他人を愛することが幸せなのだ」と考えている人は、絶対に負けることはありません。その幸せは、自分の意思で決めたものであるから、自ら捨て去らないかぎり、けっして失うことはないのです。
(おわり)