No.294『内省的であることは悪いことではない』
他人とうまく付き合えない人、自分に自信がもてない人は、すぐに自分を責めてしまう癖があります。
他人は、自分のようなつまらない人間と一緒にいても、おもしろくないのではないか。自分の態度が相手をいら立たせているのではないか。自分は相手から見くだされているのではないか。
つい「どうせ自分なんか」と責めてしまい、そんな自分が嫌になり、他人にも心を開けなくなってしまうのです。
そういう人は、「自分を責めるのをやめたい」と思いながらも、「しかし、それをやめてしまったら、ごう慢でずうずうしい人間になってしまうのではないか」という不安を感じているのではないでしょうか。
そうです、つねに自分を省みて、自分の弱さ、いたらなさを自覚するというのは、悪いことではないのです。
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自分に自信をもち、堂々と生きるためには、横着で無反省で恥知らずな人間になればよいというのではありません。
「自分の何げない一言が、他人を傷つけてしまったのではないか」「自分は他人に迷惑をかけているのではないか」と、自分の言動を見つめ直し、他人の気持ちをおもんぱかることは、とても大切なことなのです。それをやめる必要はありません。
やめるべきことは、「どうせ自分は嫌われているのだ」「自分は存在する価値がないのだ」と、自己を否定してしまうことです。
内省的であることは、もって生まれた性格ですので、簡単に変えることはできないでしょう。内省的であること自体が悪いわけではないので、無理に変えようとしないほうがよいのです。
重要なことは、反省することの目的です。
自分を省みるのは、自分という人間を理解し、愛し、生かされていることのよろこびを実感するためです。自分を傷つけるためではありません。
自分を責めてばかりいる人は、心の底には他人への怒りや憎しみを抱えています。自分を傷つけた人、自分を認めてくれない人が許せないのです。
他人を憎んでいながらも、「でも本当は愛されたい」という複雑な感情が混じり合っています。
「私はこんなに自分を責めているのだから、そんな私を認めてほしい」と、自分を責めることによって、間接的に他人を非難し、他人が変わることを求めているのです。
そうして、求めては拒絶され、期待しては裏切られ、を繰り返すうちに、屈辱と無力感にさいなまれ、何もかもが嫌になってしまうのです。
「最終的に他人から認められること」を目的として自分を責めるのはやめなければなりません。仮に他人から認められ、その目的をとげたとしても、無反省でごう慢な人間になってしまうだけです。
どれだけ他人から認められても、自分で自分を好きになれなければ、自信はもてません。
「自分を理解し、自分を好きになる」という目的のために、自分の弱い部分やみにくい部分と向き合うべきなのです。
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他人に傷つけられたときは、「自分もきっと誰かを傷つけたことがある。こうして自分が傷つけられて、ようやく他人の心の痛みが判ったのだ」と考えるようにしてみてください。
他人に何かをしてあげたのに、まったく感謝されずにがっかりしたときは、「自分は、恩を受けた人すべてにちゃんと感謝を示しているだろうか」と思いを巡らせてみてください。
日々の何げない生活の中でも、「私の行いが至らないのに、食べものや寝る場所が与えられることを心苦しく思います」と、心の中で感謝の祈りを捧げてください。
どれだけ自分が他人から許され、救われ、支えられているかが判るようになるでしょう。
「自分を責め、自分を嫌いになる」のはよくありませんが、「自分が好きだからこそ、自分を責める」のは、悪いことではありません。
自分の弱さを認め、自分を受け入れ、また他人を受け入れるためです。
自分を否定するためではなく、「自分は何をすべきか」を考え、自分の存在意義を確認するためです。
自分を嫌ってしまうのは、「自分は他人に負けている」「他人からバカにされている」という劣等感があるからです。
では、他人に勝って相手を見くだせば幸せになれるのかというと、けっしてそんなことはありません。
勝ち誇ってふんぞり返ることよりも、弱い立場の人の気持ちが判ることのほうが、はるかに価値があります。
自分の弱さを認められない人は、他人の弱さも受け入れられません。
もし自分が他人に傷つけられたときは、相手を責めるのではなく、相手のその弱さを哀れみましょう。
きっと自分にも同じような弱さがあることに気づくはずです。誰も傷つけず、誰にも迷惑をかけずに生きていけるほど強い人はいません。
自分も他人も、その違いは紙一重です。
自分の弱さをはっきり認められれば、他人への怒りも消え去り、心が安らかになります。そして、「他人を責める前に、まず自分が成長しよう」という意欲と情熱がわいてきます。
怒りのエネルギーを、自分を向上させるために使うのです。
自分が嫌いになるような反省は、上っ面だけのにせものの反省です。本当に反省ができる人は、自分を好きになれるものなのです。
(おわり)