No.305『幸せの理由、不幸の理由』
人にはそれぞれ、恵まれている点とそうでない点があります。
あらゆる点において恵まれている人はいませんし、すべてが不幸な人もいません。一見恵まれているように見える人でも、その人なりの苦労や悩みがあるのです。
しかし、自分を好きになれない人、自分を卑下してしまう人は、「私は何もかもが最悪」で、「この世で私だけが不幸」だと思い込んでいます。
そういう人は、幸せが目の前に転がっていても、見えていません。いえ、見ようとしないのです。
「健康な身体があり、住む家があり、家族がいる。与えられたものに感謝すべきではないですか」と言われると、「そんな当たり前のことに感謝などできない」と反論します。
「世の中には、もっと恵まれない立場の人もいるのですよ」と言われれば、「自分より恵まれている人もたくさんいるではないか。不公平だ」と言い返します。
「他人の役に立つことをすればどうですか」と言われれば、「自分のことで精一杯で、他人のことを考える余裕はない」。
まるで、自ら幸せになることをかたくなに拒否しているかのようなのです。
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自分を不幸だと嘆いている人は、なぜわざと幸せから目を背けようとするのでしょうか。
その理由は、「自分にも恵まれている点がある」ということを認めてしまえば、自分の人生がつまらない(と思っている)ことに対して言い訳ができなくなってしまうからです。
「私は容姿がみにくいから、愛されないのだ」
そう言っておけば、自分が愛されないことについて、「自分の努力ではどうしようもないのだ。自分が悪いのではない」と言い訳ができます。
「容姿が美しくなくても、皆から愛されている人はたくさんいますよ」と言われれば、今度は、「そういう人は、優しい親に愛されて育ったからだ。私は親に愛してもらえなかったから、自分に自信がもてないのだ」と、新しい「不幸の理由」を主張します。
「親に見捨てられても、立派に生きている人はたくさんいますよ」と言われれば、「そういう人は、たまたま才能に恵まれていたからだ。私には何の取り柄もないのだから、仕方がない」と、さらに言い訳をつくろいます。
私は不細工で、しかも貧しくて何の取り柄もなく、そのうえ誰からも愛されずに育ち、なおかつ幸運の女神にも見放され……。
いきおい、自分だけが世界中の不幸を背負い込んでいるかのように、言い訳に言い訳を重ねてしまうのです。
「自分は何も悪くない」ということを証明するために、徹底的に自分を卑下するという、矛盾したことをやっているのです。
しかし、そのような理屈は、どうしても筋が通りません。
自分が一番不幸であるなら、もうとっくにこの世にはいないはずです。
いろいろつらい目にあいながらも、何とか生きてこられたということは、充分に幸福であったということなのです。自分の努力が実ったか、誰かの助けがあったか、たまたま幸運が重なったおかげなのです。
「不幸である理由」を数え上げればきりがないのと同じように、「幸福である理由」も探せばいくらでも見つかるのです。
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自分を改めようと思えば、いやでも「これまでの自分の考え方が間違っていた」ということを認めざるをえません。
言い訳ばかりして先に進もうとしない人は、「自分が間違っていた」ということを認めてしまえば、自分の価値が完全に否定されると思い込んでいるのです。
「自分が間違っている」ということを認めたくないから、他人のせいにする。他人のせいにしている自分の卑しさを認めたくないから、自分を責める。その堂々巡りで、いつまでたってもうっぷんは晴れず、心は疲れ果ててしまうのです。
「自分が不幸であること」のどんな言い訳も、突きつめれば「自分の考え方が間違っている」という結論にたどり着いてしまいます。
自分を好きになれないという人は、「間違いを認めようとせず、言い訳をしている自分」が好きになれないのではないでしょうか。
自分の間違いを認めようとしない人は、正確に言えば、「間違いをあまりにも深刻にとらえすぎている」のです。
「間違っていた」といっても、道徳的な罪を犯したわけではなく、単に「やり方が間違っていた」というだけのことです。別にそれは怖れるほどのことではないのです。
自分の考え方が間違っていたために、自分が損をした。ただそれだけのことで、悪意をもって他人を傷つけたりしたのではないかぎり、誰からも非難されるいわれはないのですから、罪悪感や自己嫌悪を感じることはありません。
数学の公式を間違って覚えていた人が「悪い人」ではないのと同じことです。間違いに気づいたなら、それを改めればよいだけのことなのです。
うまくいけば、よし。うまくいかなくても、それもまたよし。
思い通りにならなくても、人間はそこそこ幸せに生きていけるのです。
勇気を出して、「自分が幸せである理由」を見つけてみましょう。
間違いを改めないことを非難されることはあっても、改めて責められることはないでしょう。
(おわり)