No.029『深刻に考えすぎることをやめよう』
今、目の前に自殺を図ろうとしている人がいるとしたら、あなたは何と声をかけるでしょうか。
「かけがえのない命を粗末にしてはいけない」
「生きていれば、必ずいいこともある」
「死ぬ勇気よりも、生きる勇気をもて」
などというのは、よく聞く言葉です。
しかし、これらの言葉は、どこか高いところから見下しているような尊大さを感じさせます。
そんなことは、わざわざ言われなくても、誰でも判っていることです。判っているからこそ、苦しんでいるのです。
相手は、かえって自分が責められているように思い、「どうせ私の苦しみなど、誰も理解してくれない」という反発を招いてしまうのではないでしょうか。
生きることに絶望してしまった人は、決して人生を粗末にしているわけでも、努力を怠ったわけでもありません。
むしろ、あまりに「人生を重大視しすぎてしまった」のです。
自分というものがあまりに大切だから、些細なことを気に病み、思い通りにならないことに苦しんでいるのです。
芥川龍之介は、「人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。重大に扱わなければ危険である」と言いました。
自殺を考えるほど追い詰められた人にとって、本当に必要な言葉は、「重大に扱うのはばかばかしい」という部分でしょう。
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ひとりの人間の一生など、宇宙の永い歴史に較べれば、ほんの一瞬の、ちりほどの値打ちもないものです。
自分が宇宙の歴史を変えるわけではなく、永遠に存在の証しが刻まれるわけでもなく、ただの一時期、この世に生まれ、そして消えていくだけのはかないものです。
気も狂わんばかりにもだえ苦しんだり、人を憎んだりしても、何が残るわけでもありません。自分が死んだら、それで自分の世界は終わりです。
泣いて暮らすも一生、笑って暮らすも一生。
はかない一生だからこそ、せいぜい楽しく笑って過ごせば、それでよいのではないでしょうか。
これは決して、生きることの意味を否定し、人生の責任を放棄することではありません。むしろ、大いに積極的、主体的な考え方なのです。
どんな厄難や不運も、笑い飛ばしてしまえばよいのです。
それを軽薄、不謹慎だと批判する人もいるかもしれません。しかし、人生をあまりに重大に、深刻に考えたとして、ひっきょう、苦しみというマイナスの結果しかもたらさないのだとすれば、いったいそれにどれほど「重大な」意味があるというのでしょう。
それこそ、せっかくの貴重な人生を無駄にしていることになりはしないでしょうか。
「生きる喜び」が感じられず悩んでいる人は、視点を変えて、「生かされている喜び」に目を向けてください。
人は、生まれてから死ぬまでのひととき、神から命を借りているだけなのです。
命を自分の所有物だと思うと、人生が思い通りにならないと言っては腹を立てたり、悲観したりしてしまいます。
人は、自分の力でこの世に生まれてきたわけではありません。呼吸をしていることさえ、自分の意思によるものではないのです。
自ら「生きている」のではなく、神に「生かされている」のだと思えば、それだけで感謝の気持ちでいっぱいになるはずです。
些細な悩みが、ばからしく思えることでしょう。
「人は何のために生きるか」などと誰に問いかけても、答えは返ってきません。
逆に、私たちひとりひとりが、問われているのです。「あなたは、何のために生きているのですか」と。
正解はひとつではありません。自分なりの答えを出せばよいのです。
(おわり)