No.054『WHYではなく、HOWで解決する』
先月、テレビの情報番組で、何年間も家に引きこもっていた青年が、勇気を出して運転免許取得の合宿に出かける様子を放映していました。
母親は、息子のために、合宿に持っていくもののリストをこと細かに紙に書きとめ、準備をしてあげていました。母親の「私は、息子のためにこんなにも献身的に尽くしてあげている」と言いたげな態度に、私は怒りさえ覚えました。
二十歳を過ぎた大人が外出するのに、母親が持ちものを用意してあげているのです。雨が降っているからと、ご丁寧に電話でタクシーまで呼んで、門の前まで息子を見送ってあげていました。
この青年はずっと、母親からこうして、「お前は、お母さんがついていなければ、ひとりでは何もできない、ダメな子なのよ」という暗黙のメッセージを受け取り続けてきたのでしょう。
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この母親は、息子が精神的に独立して、自分から離れていってしまうのが怖いのです。いつまでも子供が一人前にならないよう、偽りの愛情を盾にとって、真綿で首をしめるように、子供の尊厳をむしばんできたのです。
息子の奴隷のように尽くす母親の態度は、愛情ではなく、「自分が嫌われたくない」という利己心にすぎません。
こんな母親に育てられたら、自己無価値感に悩まされても当然だと、私は彼の不運な境遇に同情しました。
人は、自分の生まれる環境を選べません。富豪の家に生まれるか、貧乏な家に生まれるか。愛情あふれる親に育てられるか、まったく愛情を受けずに育つか。
自分の境遇に、「なぜ(WHY)」と問いかけても、答えは得られません。それは、「たまたまそうなった」としか言いようがないのです。
科学では、台風や地震、雷などについて、「なぜ、そのような現象が起こるのか」ということは解明されています。しかし、この「なぜ」とは、「WHY」ではなく、「HOW(どのようにして)」ということであるにすぎません。
台風や地震が起こるメカニズムは判っても、そもそも、なぜ神(と言って都合が悪ければ、自然)が、台風や地震という現象をこの世界に創り出したのか、それに何の意味があるのか、ということまでは、科学では説明できません。
私たちにできるのは、せいぜい、経験と知識を使って自然災害を予測し、できるかぎりの備えをすることだけです。
ガンに侵された人は、「なぜ(WHY)自分がこんな目に」と運命を呪う前に、医者に外科的手術で腫瘍を摘出してもらわなければなりません。
私たちは、さまざまな現象がどのようにして(HOW)起こるかというメカニズムを解明し、対処するしかないのです。
冒頭に挙げた青年は、愛情のない母親に怒りや憎しみを感じながらも、親を憎むのは悪いことだという罪悪感に苦しみ、怒りを抑圧し、素直に自分を表現できないでいるのでしょう。
母親を直接攻撃することはできないから、代わりに「自分はこんなにも傷ついている」ということを示して、間接的に批判しているのです。
自信がもてない人間に育ってしまった心のメカニズムを認識し、知らず知らずのうちに染みついた間違った考え方を少しずつ改善していけば、心の病は治っていくはずです。
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たまたま未成熟な親に育てられてしまったことは、仕方のないことです。嘆くのはやめ、「自分の責任ではない」ということをはっきり自覚し、心の抑圧を解放するべきです。
幼い子供は、親の不幸や不機嫌に対し、罪悪感を感じてしまいます。
「両親の仲が悪いのは、自分が悪い子だからだ」
「親が自分を可愛がってくれないのは、自分が愛される資格がないからだ」
しかし、そういう不運な境遇に生まれたとしても、それは自分の責任でも、罪悪でも何でもないのです。「なぜ(WHY)」と自分を責めるのは、やめましょう。
たまたま運が悪かった、というだけのことです。
罪悪感や劣等感を感じている人は、それをはっきりと認めるのが怖いから、いつまでも自分の心を抑圧し、自分をごまかして生きています。X線やCTスキャンでガン細胞の位置を特定しなければ、治療することもできません。
自分の性格を直したいと思ったら、「どうして(HOW)そのような性格が形成されたのか」というメカニズムを認識するだけで充分です。「なぜ(WHY)自分が……」という罪悪感や劣等感をもっていては、一歩も前に進めません。
生まれながらにして罪を背負っている人など、この世にひとりもいません。
誰でも、生きるだけの価値があったから、数十億分の一の幸運な確率で生まれてきたのです。
なぜ自信がもてないのか、なぜ不機嫌になるのか、なぜ不安を感じるのか。ひとつひとつの心理を、客観的に分析して、改善していってください。
風邪を引いたときには、お腹を冷やさないようにし、部屋の喚起をよくして、充分な睡眠をとればよい。それと同じレベルの話なのです。風邪を引いたのは、あなたに罪があったからではありません。
(おわり)