No.084『表面的な幸せにこだわっていないか』
映画や小説、テレビドラマなどでは、「家族愛のすばらしさ」をうたい上げるものが数多くあります。
家族の愛、絆。これらはたしかに、人間にとって非常に大きな喜び、生きがいとなります。
「サザエさん」のような大家族ドラマが長い人気を得ているのも、「ほのぼのした幸福な家庭」に誰もが憧れている証拠でしょう。
しかし、「家族愛こそが幸福の源」と言い切ってしまうのは危険です。
それでは、家族のいない人は絶対に幸せになれないということになってしまいます。決してそんなことはありません。
人それぞれに、幸せの形はさまざまです。ないものを求めるのではなく、自分に与えられたものの中で幸せを見いだせばよいのです。
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先日、学習塾に行きたがらない小学生の息子を母親が絞殺するという、痛ましい事件が起こりました。
学習塾に行きたがらないということが、人の道に外れているわけでもあるまいに、なぜこの母親は、殺意を抱くまでに息子に怒りを感じてしまったのでしょうか。
この家庭は、近所の人の目には、仲がよく、とても幸せそうに見えたそうです。
「他人からは幸せそうに見える」というところに、この家庭のそもそもの不幸の根源があったのでしょう。
子供は聞き分けがよく、賢くなければならない。幸福であるはずの家庭に、問題児がいることは許されない。
この母親は、子供の幸せを願っていたわけではなく、また、自分の本当の幸せを求めていたわけでもなく、「他人からうらやまれるような人生」に固執していたのではないでしょうか。
「あそこのお宅は、新築の家に住んで、ご主人はいい会社にお勤めで、お子さんも勉強がよくできて」と言われるような家庭──。母親は、家族というものを、自分が描いた設計図に基づいて人生を組み立てるための部品ぐらいにしか思っていなかったのです。
「私は理想的な人生を手に入れるはずだったのに、どうしてあなたは、その邪魔をするの」
これが母親の本音だったのでしょう。
自身の深い劣等感から、虚栄で身を守るようになり、その偽りの幸せをはがされれば、また皆からバカにされると思いこみ、恐怖を感じる。それが母親の怒りの原因です。
実際に殺してしまうのは極端だとしても、子供を将棋の駒のように扱い、「精神的に」殺してしまっている親はたくさんいるのではないでしょうか。
理想を描くことは、悪いことではありません。心からの幸せを感じている人にとっては、それはもちろん、すばらしいことです。
しかし、単に表面的、形式的に幸せの形にこだわり、「その形にあてはまらなければ不幸」と考えるのは問題です。
暴走族は、どれだけスピードを出したか、どれだけ危険な行為をしたか、などということを自慢げに語ります。
彼らの仲間うちに限られた、偏狭な価値観の中では、それが自慢になるのです。
しかし、まともな常識を備えた人から見れば、そんなことは格好よくも何ともなく、バカげた幼稚な行為です。
それを格好いいと思うのは、同じように低レベルな人間たちだけです。そんな人たちに認められたところで、何の値打ちもないのに、彼らはその愚かさに気づかず、勝手にいい気になっているのです。
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「他人からうらやまれるような幸せ」に固執することも、それと同じくらいに愚かなことです。
美人の彼女をもつ、ブランド品で着飾る、有名大学を目指す、金持ちになる……。
それ自体が間違っているというのではありません。自分が心から幸せを感じられるならそれでもよいのですが、単に「他人からうらやまれたいから」という理由でそのような表面的な幸せを求めている人は、永久に幸せにはなれません。
「うらやむ」とは、「心(うら)病む」という意味です。
「表面的な幸せ」をうらやむのは、しょせんは視野の狭い、心の貧しい人たちです。
そんな人たちからの羨望をうけて、いったい何になるでしょうか。暴走族のケンカ自慢と同じです。
幸せは、自分の意志で感じるものです。
他人から嫉妬されれば幸せだが、そうでなければ幸せではない。そんな他人の気分ひとつによって左右されてしまうものが、本当の幸せであるはずがありません。
意志のないところに幸せはありません。
正常な感覚をもっている人からは、見栄をはって表面的な幸せにかじりついている人たちは、むしろ憐れみの目で見られているのです。
その愚かさに気づかなければなりません。
恋人に振られたり、浮気をされたりしたときは、誰でも傷つくし、落ち込むことでしょう。しかし、相手に恨みを感じてしまうなら、それは「表面的な幸せ」に固執していた証拠かもしれません。
仲のよい恋人がいて、おシャレなデートをして、誕生日やクリスマスにはプレゼントを交換し……。相手を心から愛しているわけではないのに、「まわりに見せつけるための恋愛」「他人からうらやまれるような恋愛」を求めていただけなのではないでしょうか。
「どうして私の人生のシナリオに従ってくれないの」
そのような怒りを感じていないかどうか、自分の胸に問いかけてみてください。
もしそうなら、うらやまれていたと思っていたのは自分だけで、ふつうの人からはきっと、冷めた目で見られていたことでしょう。
(おわり)