どうすれば愛される人間になるのか。愛を得られず悩んでいる人なら、誰もが抱いている疑問でしょう。
なぜ愛されたいのかといえば、当然、幸福な人生を送りたいからです。人間のあらゆる欲求の最終的な目標は、「幸福になる」ということです。
行き詰まったときは、「愛情を得る」ことばかりにとらわれるのをやめて、「幸福とは何か」を考え直してみるのも、ひとつの手段です。
他人から愛されるということは、もちろん幸福の大きな要因ですが、「愛される人」というのは、「愛されなくても幸せを感じられる人」だからこそ、愛してもらえるのです。
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画家のピカソは、独創的な画風で有名ですが、はじめからあのような表現方法を用いていたわけではなく、若いころは、基本に忠実な写実的デッサンを数多く残しています。
基本のデッサンを極めたからこそ、既成の枠に飽きたらなくなり、あの独創的な表現に行き着いたのです。
アインシュタインは、ニュートン力学という礎があってこそ、それを超える理論を打ち出すことができました。
大リーガーのイチロー選手は、バントなどの基本練習をほかの人の何倍も行ったそうです。
基礎の土台がしっかりしていなければ、既成の枠をはみ出すことはできません。
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どんなに嫌な性格の人も、好きこのんで他人から嫌われているわけではありません。せっかくこの世に生まれてきて、わざわざ不幸になりたいなどと思う人は、ひとりもいないでしょう。
他人から嫌われる性格の人は、嫌われると判っていながら、なぜ悪い性格を直せないのかと言えば、心の底では、「そんな私の心を誰かに理解してほしい」と切実に願っているからです。
親にかまってもらえない子供が、いたずらをして親を困らせるのと同じです。
普通に振る舞っていたのでは、誰も自分の心の痛みに気づいてくれない。だから、他人に嫌われると判っていても、あえて反感をかうような言動をしてしまうのです。そこまでしてでも、「私は、こんな嫌な性格になってしまうほど、傷ついて生きてきたのよ」ということを誰かに理解してほしいのです。
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いつも「忙しい、忙しい」と不満を言っている人の話をよく聞くと、そのたくさんの「忙しい用事」とは、ほとんどが、わざわざ自分でつくり出したものです。
もしそれらの「忙しい用事」がなくなって暇になれば満足するのかというと、そうではなく、また新しい用事をつくり出すのでしょう。
仕事の用事、他人と会う用事……。「忙しい人」のスケジュール帳は、「しなければならないこと」でびっしり埋まっています。
しかし、それらの予定は、本当は「しなければならないこと」というよりも、「自分から求めているもの」なのです。
自分がお金を稼ぎたいから、または生きがいを感じたいから仕事をしているのだし、他人との良好な関係を保ちたいから人と会っているのです。
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困難に負けるな。くじけるな。自分に打ち克とう。
世の中には、「前向きな」言葉があふれています。勤勉、努力を美徳とする日本人は、「苦難を乗り越える」ことが人間の最大の価値であるかのように思い込んでいます。
学校でも、「将来の幸せのために、今、我慢しろ」ということがまことしやかに謳われています。子供たちは、「充実した人生を送るためには、絶え間ない努力が必要なのだ」と思い込まされ、いつも何かに追われているような不安と焦りに悩まされています。
もちろん、目標に向かって努力することを否定するつもりは毛頭ありません。しかし、今の充実を犠牲にしてまで得るべきものなど何もありません。
真の幸福に向かって努力しているなら、努力そのものに充実を感じられるはずです。今が楽しくなければ、今が充実していなければ、どれだけ努力し、我慢しても、喜びは得られません。
将来の幸福を願うなら、何よりまずすべきことは、「今、与えられた幸せに感謝する」ということです。
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頭がよいということには、ふたつの意味があります。記憶力のよさと判断力のよさです。
学校では記憶力が重視されがちですが、実社会で生きていく上で本当に必要なのは、判断力のほうです。
会社を経営するには判断力がもっとも強く要求されますし、恋人を幸せにするにも、記憶力よりも判断力のほうがはるかに重要です。
デートにどの洋服を着ていくか、ファミリーレストランで何を注文するか、映画を観るか遊園地に行くか……。
何を決めるにもなかなか判断ができず、迷ってばかりいる人がいます。そういう人にかぎって、決断した後も、「やっぱり別の選択をすればよかったのではないか」と後悔し、悩んでしまうのです。
選択に悩めば悩むほど、「本当にその選択は正しかったのか」といつまでも気にかけてしまいます。自分の意志で自分の道を歩んでいるという充実感が得られないのです。
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友人や恋人に嫌われるのが怖くて、自分の言いたいことを言えず、愛想笑いで取り繕い、しかしそんな自分に嫌気がさしている、という人も多いことでしょう。
他人に見捨てられるということを、まるで「世界の終わり」であるかのように怖れてしまっているのです。それを逃れるためなら、どんな犠牲もやむをえない、と思い込んでいます。
しかし、なるべくなら、その「世界の終わり(と思い込んでいるもの)」を早いうちに経験してしまったほうがよいのです。と言うよりも、実は、「他人に嫌われることを必要以上に怖れている」という時点で、すでに破滅は起こっているのです。
ただ、その現実から目をそらし、自身の心が受け入れることを先延ばしにしているにすぎません。
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たまたま不運な境遇に生まれた人は、たくさんいます。家が貧しかった、親に愛されなかった、身体的欠陥がある……。
しかし、不幸とは、不運な現実そのものをいうのではありません。不幸とは、「自身の不運を受け入れることができず、もがき苦しむこと」をいいます。
人は、与えられなかったものに執着し、劣等感を埋め合わせるために、それを過度に求めてしまいがちです。貧しかった人はお金に執着し、愛を得られなかった人は愛に執着します。
それは、本当の幸せを求めているのではなく、自身の不安をごまかそうとしているにすぎません。
どれだけ走っても、走っても、ゴールは見えず、精神は疲れるばかりです。
人間にとって大切なことは、「位置」ではなく、「向き」なのです。
「自分の人生は、こんなはずではなかった」と、自身の不運を認めることができず、逃げてばかりいる人は、永久に幸福にはなれません。
不運な目にあったときには、そこから逃げようとするのではなく、まず、「こういうことも起こりえるのだ」と、自分の置かれた位置を冷静に認めなくてはなりません。
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生きていれば、うれしいことも悲しいこともあります。当然ながら、誰でも、少しでも悲しみを減らし、喜びの多い人生を送りたいと思っています。
しかし、喜びも悲しみも、相対的な問題である、ということを忘れてはいけません。座標軸をどこにとるかによって決まるものなのです。
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愛される人の条件のひとつに、「素直な性格」が挙げられます。
しかし、この「素直」ということを、自分を殺して盲目的に他人に従うことと勘違いしてはいけません。
素直な人とは、強い精神力をもち、自分の考えに自信をもっている人のことです。他人に従順であるよりも、まず、自分に素直でなければなりません。
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