いつも自信満々で、自分は皆から好かれていると思い込み、誰にでも馴れ馴れしく接するうぬぼれ屋というのは、まわりからは煙たがられます。
同様に、「どうせ自分は他人から嫌われている」と言ってばかりいる人も、わずらわしいものです。
両者とも、「他人は皆、自分に関心をもつべきだ」と押しつけている点では同じなのです。
自分に自信のない人は、他人のちょっとしたしぐさや何気ないひと言をいちいち気にかけてしまうので、他人も自分の細かい言動に目を光らせているに違いないと思い込んでいます。しかし、実際は、他人はそれほど自分のことなど気にかけてもいないものです。
「自分は嫌われてはいないだろうか」といつも気にかけている人は、充分すぎるほどまわりに気を配っているので、他人から嫌われる確率は、ほかの人に較べれば断然低いはずです。少しぐらい図太くなっても、まったく問題はないのです。
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人は、生きているだけで価値がある。誰でも、幸福を見つけることができる。よく聞かれる言葉ですが、頭では判っていても、なかなか実感として受け入れることができない人も多いことでしょう。
自分を不幸だと思い込んでいる人は、「ささやかな幸せに目を向けなさい」と言われれば、「私は、小さなことで満足しなければいけないような、ちっぽけな人間だということか」と、逆に自分が軽んじられたように感じてしまうのでしょう。
それは大きな誤解です。
幸せな人とは、おしなべて小さな幸せに満足できる人のことです。他人と較べて特別に恵まれた環境にあることでしか満足を感じられない人は、本当に幸せではないのです。
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自分に自信のない人は、過去の失敗や恥をかいた経験をいつまでもくよくよと悩んでしまう傾向があります。
「くよくよするな」と言われても、「それができないから悩んでいるんじゃないか」と言い返したくなるでしょう。
悩みは、人間の健全な成長に欠かせないものです。自信を失ってしまう人というのは、悩み方が下手なだけなのです。
悩み方の下手な人は、「悩み苦しむことはいけないことだ」と思い込み、手っ取り早く解決しようとしてしまいます。そして無駄な努力を重ね、「自分はこんなに努力しているのに、なぜ苦しみから解放されないのか」と、よけいに悩みを深めてしまう結果となってしまいます。
まず、人間は一生悩みながら生きていくものだ、ということを認めなくてはなりません。
何の悩みもない人というのは、意志も欲望もない無気力な人だということになります。そんな薄っぺらい人間になっても仕方がありません。
絶望した人は悩みすらしません。生への欲求があるから、悩むのです。
過去の失敗をくよくよ悩むということは、自分が進歩した証拠です。「同じような失敗を繰り返さないように気をつけよう」ということに気づいた分だけ、失敗する前よりは確実に進歩しているのです。
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恋愛において同じような失敗を繰り返す人のパターンとして、特に女性に多いのですが、恋愛の成否をすべて相手にゆだねてしまう、ということがあります。
人を愛することそのものの喜びを知ろうとせず、自分が愛されなければ恋愛をする価値はない、と思い込んでいるのです。
彼から好きだと言われたから付き合った。はじめのうちは優しくしてくれたが、しだいにすげない態度を取られるようになった。物足りなくなり、愛情を要求し、愛情を押し付け、かえってうとまれる結果となった……。
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水の入ったコップに墨汁をたらせば、水はにごってしまいます。一度にごってしまった水は、もとに戻すことはできません。
しかし、バケツのような大きな容器に移し替えて、大量に水を注ぎ足し、ほとんど透明になるくらいまで薄めることはできます。
毎日イライラしている人は、「自分には嫌なことばかり起こるのだから、ストレスをためるのは仕方がないことだ」と思っているのかもしれません。
しかし、嫌なことは、誰にでも起こるものです。いつも笑顔で明るく生きている人も、人生に起こる「嫌なことの総量」は、たいして変わりません。
ただ、明るい人は、全体の容量が大きいので、嫌なことの割合が小さく、気にならないというだけのことなのです。
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衣食住のすべてにおいて満たされ、人生にそれほど大きな障害はないが、なぜか心は満たされない。不幸だとは思わないが、幸福も感じられない。
現代では、このような「なんとなく不幸」という人たちが増えています。
法のもとでは皆平等であり(少なくとも建前上は)、職業の選択や婚姻において身分の差別を受けることもなく、お金さえあればたいていの物は手に入ります。
だからこそ、生きるために死にもの狂いになる必要もないし、生命の喜びが心の底から沸き上がるということもめったにありません。
欲望にかぎりはなく、ひとつ満たされれば、またあらたな欲望が生まれます。
いくら満たされても、まわりの他人も同程度に満たされているので、それを当たり前としか思えず、特にありがたみも感じられません。
幸福は、欠乏なくしては感じられないのです。逆にいえば、欠乏こそが幸福のもとなのです。
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人間は、自分のやりたいことをやっているときは、ストレスを感じません。どれだけ多くの苦難が待ちかまえていようとも、自分の足で歩いているならば、逆風は「やりがい」に変わるものです。
ストレスは、「いやいややらされていること」に対して感じます。
しかし、いやいややらされているかどうかは、自分の受け止め方によって変わるものです。
自分が「いやいややらされている」と考えていることのうち、本当に他人から強要されているものがいったいどれだけあるか、数えてみてください。
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心豊かに生きるためには、「自分を愛すること」が必要不可欠です。
しかし、この自己愛というものが非常にやっかいで、行き過ぎたり、活用の方法を誤ったりすると、かえって自分を苦しめることとなってしまいます。
「自己愛の強すぎる人」には、ふたつの型があります。
積極的に自己を顕示しようとするタイプと、逆に自分の殻に閉じこもってしまうタイプです。
顕示型は、外面を着飾ったり、自慢話をひけらかしたりして、あからさまに賞賛を求めるので、よけいに敬遠されてしまいます。判りやすい分、対処法は比較的容易だといえます。
自分を認めてほしいという欲望と、自分を押しつけすぎれば嫌われるという葛藤のはざまで、どこで折り合いをつけるかという問題にすぎません。
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どこの社会にも、陰口や噂話の好きな人というのは存在します。そういう人に手を焼いている人も多いことでしょう。
陰で自分の悪口を言われているのではないか、自分の評価を落とすようなことを言われているのではないか。そう考え出すと不安で仕方がなくなることもあります。
仮に、誰かが陰で自分のことを「あいつは、人当たりはよいけど、実は腹黒いやつなんだ」と悪口を言いふらしたとします。
そのとき重要なのは、ふだん自分がまわりの他人にどのように接しているかということです。
他人が皆、自分を本当に腹黒い人間だと思うのなら、自分の信頼度はしょせんその程度だったと反省しなければなりません。
他人は、その人の言った悪口だけを信じたのではなく、ふだんの自分の態度などを総合的に判断して、「ああ、やっぱり」と納得しただけなのです。
ひとりの人間にどんな陰口を叩かれようとも、自分が日ごろからきちんと信頼されるような言動をとっていれば、まわりの他人は信用してくれるはずです。
信用をなくすのは、悪口を言った人のほうです。
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子育てにおいてもっとも重要なことは、褒めることです。
しかし、子供への信頼も愛情もなく、ただやみくもに褒めることは、かえって悪影響を及ぼすこともあります。
特に、親の勝手な願望を押しつけて、まるで犬に芸を仕込むように、子供が思い通りになったときだけ褒めるというのは、禁物です。
親はよかれと思って褒めたつもりでも、子供にとっては、「親の望む通りの人間にならなければ、自分は見捨てられる」という恐怖を抱いてしまうのです。
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