No.160『弱いからこそ満たされる』
せっかく他人に親切にしてあげたのに、相手に一言の礼もいわれず、腹が立つことがあります。
他人から親切を受けたときに礼を言うのは、もちろん、人間として最低限のマナーです。しかし、マナーとは、自発的に行うものだからこそ意味があるのです。
相手に「礼を言え」と強要し、無理やり言わせて満足している人は、感謝というものの本当の意味が判っていないのです。
「礼を言わない人」への怒りを抑えるもっともよい方法は、自分が他人に礼を言うときには、心を込めて言うことです。
「感謝とは、自発的に、心を込めて行うもの」だということが判っていれば、他人に礼を言われるかどうかなどということは気にもならないはずです。
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他人に対する不満は、実は、自分自身に向けられていることが多いものです。
自分の劣等感や罪悪感を認めることが苦しいから、問題を他人事にすり替えてごまかしているのです。
ある女性は、恋人がギャンブルでつくった借金を何度も肩代わりさせられ、つらい思いばかりさせられているのに、なかなか別れることができません。
彼女の言い分は、「彼は、私がいてあげないとダメだから」ということです。
しかし、もはやそれは愛情ではなく、優者が劣者を憐れむ同情にすぎません。
彼女は、彼に必要とされているのではなく、必要とされることを必要としているにすぎないのです。内心では、彼がいつまでもダメ人間であり続け、自分に頼ってくれることを願っているのです。
借金の肩代わりをすることが、よけいに彼をダメにし、自分自身もダメにしていることに気づかなければなりません。
いずれも、相手に依存しておきながら、相手よりも優位に立ちたいという欲求がもたらした苦悩です。
「人の役に立つ人間になりたい」という願望は、悪いことではありませんが、ともすれば、他人に感謝されることによって自分の優位を確保し、相手を心理的に支配したいという利己的な欲求とはき違えられがちです。
本当の幸福は、他人に譲ることで感じられるものです。
他人に優位を譲りながら、自分の心も満たされることができれば、これに勝るものはありません。
無気力に他人に屈するのではなく、意志と誇りをもって優位を譲るのです。たとえそれが自己満足であっても、不満を並べるだけの人生よりはよっぽどましです。
他人を立てることは、けっして自分の価値をおとしめることにはなりません。
他人に何かをしてもらわなければ満足できない人こそ、自分の価値をおとしめているのです。
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「思い通りにならない人生」を受け入れるということは、自分を無価値な人間だと卑下することとはまったく異なります。
他人から認めてもらえず、自信を失っている人にとって必要なことは、くじけないように自分を奮い立たせることではなく、他人に負けない強さを身につけることでもなく、「多くの縁のおかげで、自分は生かされている」という感謝の心をもつことです。
他人が自分よりも優れていたり、恵まれていたりするときは、ただそれを素直に認めるのはよいのですが、卑屈にいじけるのはよくありません。
勝つか負けるかの競争の中では、けっして幸せは見つけられません。
「もっと欲しい」という不満に悩まされ続けるよりも、「もらいすぎては申し訳ない」という心構えをもっていたほうが、はるかに心豊かに生きられます。
人は誰でも、自分が一番大切です。それはまっとうな自己愛であり、無理に抑える必要はないのですが、他人にもその自己愛を押しつけてはいけません。
他人にとっては、やはりその人自身が一番大切なのです。
自己愛をもつ人間同士、互いを認め合うということが重要です。
(おわり)