No.169『他人を正しく判断するために』
人間関係が苦手である人の悩みの原因のおもなものは、「他人を信用できない」ということです。
なぜ他人を信用できないかといえば、他人の気持ちが判らないからです。
ある若い女性が友人に相談した悩みの例です。
彼女は、同じ職場の男性から交際を申し込まれています。しかし、彼の態度は真剣ではなく、皆がいる前で冗談のように「ねえねえ、俺と付き合おうよ」と言ってくるだけなのです。しかも、彼は気が多く、ほかの女性にも同じようなことを言っているらしいのです。
彼女は、彼の気持ちが本気がどうかはかりかね、信用できないといって悩んでいます。
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彼女が不安に思っているのは、彼は、自分のことが真剣に好きなのではなく、ただ冗談めかして気持ちを探り、あわよくば遊び程度に付き合いたいと思っているだけなのではないか、ということです。
彼女は、自分がそのように軽く扱われたことが不満なのです。好きなら好きと真剣に言ってほしい、ということなのです。
彼の優柔不断さは問題ですが、それは彼女自身にもあてはまることです。
彼女にもまた、「もし彼が本気で自分を愛してくれているなら、自分も彼を愛してあげてもいい。しかし、もし嘘だったら、付き合うのは損だ」という打算があり、彼の気持ちを探ろうとしているから、悩んでしまうのです。
重要なことは、「他人にどう思われているか」ではなく、「自分が相手をどう思うか」です。
彼女も彼を好きであるなら、遠慮なく彼女も好意を示せばいいのだし、好きではないのなら、適当に距離を置いて付き合えばよいのです。
自分の気持ちがはっきりしていないのに、他人のはっきりしない態度に文句を言ってはいけません。
彼は、彼女をたぶらかそうという気持ちはなく、本当に彼女に好意を抱いているのかもしれません。ただの照れ屋で、自分の本心をうまく伝えられないだけなのかもしれません。
ならば、彼女はとりあえずその好意に対してだけ、「ありがとう」と感謝しておけばよいのです。それによって、自分が傷つくわけでも、損をするわけでもありません。
「他人を信用できない」という不安の裏は、「自分が損をすることなく、他人を利用したい」というずるさがあります。
「他人を信用する」とは、本来、損得を超えて、相手の人間性を尊重することです。信じるということに、損得という概念を持ち込むことが間違っているのです。
他人がしてくれたことには心から感謝し、自分が他人にしてあげたいと思うことがあれば、喜んでする。そこにどんな損害があるでしょうか。
他人のために何かをしてあげるとき、「他人のために貢献したい」と考えるのと、「自分は他人の犠牲になっている」と考えるのとでは、大きく違います。
どちらかが犠牲にならなければ成り立たない人間関係は、健全とはいえないのです。
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「他人を信用できない」という悩みを解消する方法は、裏切られたら損をするような付き合い方をしないことです。
そのためにはまず、自分の利欲や打算を捨てなければなりません。得をしようと思えば、損をすることへの不安が生まれます。
よく知りもしない他人を全面的に信用することはできません。はじめは自分で責任を負える範囲でのみ信用し、徐々に信用の範囲を広げていけばよいのです。
盲目的に他人のすべてを信用する人は、単に「私は心の純粋な人間である」と思いたいために、自分の頭で判断することを放棄して、結果に対する責任を相手になすりつけているだけなのです。
そうしておいて、あとで裏切られたといって恨むのは、無責任で思慮が足りないと言わざるをえません。
盲目的に他人を信用するならば、裏切られても恨まないという気構えが必要です。
友人に借金を申し込まれたとき、「たとえ返してもらえなくても、人助けになったのだからかまわない」と思えるくらいの覚悟がないのであれば、貸すべきではありません。
貸すのであれば、自分が困らない程度の金額にとどめておくべきでしょう。
本当に相手の人間性を信頼しているならば、借金を断ったからといって友情が壊れることはないということも信じられるはずです。
女性が遊び好きの男性にもてあそばれ、「結局、私の体だけが目的だったのか」と恨むのであれば、はじめから体を許すべきではなかったのです。
「体の関係を拒めば、嫌われるかもしれない」という不安があったのだとすれば、彼女は彼を本当に信頼していたことにはならないのです。「信じていたのに、裏切られた」などと恩着せがましいことを言うべきではありません。
「信用できるか、どうか」と悩んでしまうのは、他人を「利用価値があるか」という観点だけで見ており、「相手は自分の信頼にきちんと応えるべきだ」という押しつけがあるからです。
自分の責任において、自分の意志で判断して他人と付き合っているならば、おのずと自分のとるべき行動は判るはずなのです。
他人を信用するにしても、信用しないにしても、その結果に対する責任は自分に返ってくるものなのです。
(おわり)