No.161『愛することと許すこと』
結婚した女性からよく聞かれる夫への不満に、次のようなものがあります。
「彼は結婚するまでは優しかったのに、結婚した途端、釣った魚に餌はやらないとばかりに、すげない態度をとるようになった」
もちろん、結婚する前と後で態度を180度変えるような男性は責められるべきですが、厳密に言えば、彼は変わったのではなく、本来の姿に戻っただけなのです。
もともと彼は愛情深い人間だったわけではなく、彼女の心を射止めたいために無理をして優しいふりをしていたにすぎないのです。
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そして、そういう夫を非難している妻のほうも、自分も変わってしまったのだということに気づかなくてはなりません。
彼が自分を美しいと褒めてくれたり、洒落たレストランに連れて行ってくれたりしていたころは、自分も彼を愛していると言っていたのに、彼がそれら諸々のことをしてくれなくなった途端、手のひらを返して彼を非難するようになってしまったのです。
つまり彼女のほうも、彼という人間を愛していたのではなく、彼が自分を欲してくれることに気をよくしていただけなのです。
「〜してくれるから好き」というのは、愛情ではなく、相手を所有し、利用したいという願望にすぎません。
「自分に気を遣ってくれるか」ということだけで男性を品定めしようとするから、表面的な優しさで女性に取り入ろうとするような男性しか寄ってこないのです。
男女間の愛情は、情熱によって始まりますが、情熱は、必ずいつか冷めるときがきます。
情熱が冷めることと愛情が冷めることは異なります。情熱は激しく、盲目的なものですが、愛情は穏やかに、冷静に育むものです。
情熱が冷めたときこそ、真の愛情が試されるのです。
自分が相手に利用されていただけなのだということに気づいて腹が立つのは、自分も相手を利用しようとしていたにすぎないからです。
相手が自分を愛していなかったという事実を認めることによって、本当は自分も相手を愛していたわけではないという心の内面をえぐり出されることが怖いのです。
他人に裏切られた、だまされたと嘆いている人は、その前に、自分で自分の心をあざむいていなかったかを見直さなければなりません。
人は、自分の心の中に抑圧した「みにくいもの」を他人の中に見るとき、強い恐怖と憎悪を感じます。
臆病な人間は、他人の臆病さを許すことができません。思いやりのない人ほど、他人の冷たさを非難します。
他人を通して自分のみにくい部分を自覚させられることが怖いので、ますます他人を攻撃することによってごまかそうとするのです。
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他人が自分の機嫌をとってくれなければ気がすまない人は、おそらく、子供のころ、親の気に入る行動をとらなければ自分は見捨てられるという恐怖に怯えていたのではないでしょうか。
そして大人になってからも、他人に愛されるためには相手の機嫌をとらなければならないと思い込んでしまっているのでしょう。
だから、他人にも同じように「私に愛されたければ、私の機嫌をとりなさい」と要求し、相手が従おうとしなければ、ひどい屈辱を感じ、「機嫌をとらないのであれば、あなたを見捨てるぞ」という、まさに自分が子供のころにもっとも怖れていた言葉を突きつけて脅そうとするのです。
他人を喜ばせることはよいことに違いありませんが、その動機が「見捨てられるのが怖いから」というのでは、互いのためになりません。
必死で他人の機嫌をとる人は、機嫌をとっているかぎりにおいては不安から逃れられますが、心の深い部分では、相手に愛されているという実感をえられず、自分も相手を愛せないという罪悪感に苦しむことになってしまいます。
深い部分で自分を許していないから、他人も許すことができないのです。
他人を許せないと思うとき、まず、そういう自分自身を許さなくてはなりません。
欠点をもった人間同士、互いに許し、許され合いながら生きているのだということを認めれば、他人にも寛容になれるはずです。
欠点は、改められればそれに超したことはありませんが、あまりに神経質に「一点の汚れもあってはならない」などと思い込んでは、いつまでも自分を受け入れることができず、また他人の欠点も許せなくなってしまいます。
自分の欠点をはっきりと認識し、それが悪い形で言動に表れないように注意しさえすればよいのです。
「欠点とともに生きていく」というくらいの余裕をもてば、欠点はそれほど大きな問題とはならないでしょう。
(おわり)