No.166『嫌なことを認める』
何も楽しいことがない、自分がどうしたいのかが判らない、という人は、「嫌なこと」で頭がいっぱいになっています。
嫌なことを処理するだけで疲れ切ってしまい、楽しいことにまで目が向かないのです。
楽しみを見つけるための第一歩は、嫌なことを嫌だとはっきり認めることです。
心ない人間に傷つけられてばかりいる人は、嫌だと思いながらも、自らそういう人たちに執着してしまっているのです。
他人からの要求を断ったとき、それを非難されれば、やはり自分は無責任で冷たい人間なのかと思ってしまうこともあります。
さらに悪い場合には、他人に逆らえない自分の情けなさをごまかすために、自らすすんで相手に従っているのだと自分に言い聞かせてしまうこともあります。
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嫌なことをなぜ自分が嫌だと思うのか、頭で考えても判らないことがあります。
しかし、理屈ではっきり説明できなくても、心の奥から「嫌だ」という声が聞こえてくるなら、やはりそれはきっと、自分にとって好ましくないことなのです。
相手に対して法的な責任を負っていないかぎり、嫌なことは断ってもよいのです。
他人にノーを言えない人は、逆に自分が他人からノーと言われることを怖れ、もし言われたときには激しい怒りを感じてしまいます。
たったひとりの人間からノーと言われることを、天地がひっくり返るほどの一大事だと思い込んでいるのです。
他人からの不当な要求や、好きでもない人との付き合いは、自分が嫌だと思うなら、はっきりと断りましょう。
もちろん、露骨に「あなたとは付き合いたくない」というのは失礼ですし、無用なあつれきを生みますから、適当に言い訳をするのはかまいません。しかし、自分の心にまで言い訳をすることはないのです。
他人からの要求を断る理由は、「嫌だから」ということだけでよいのです。
これまで他人にノーを言えなかった人が、はっきり自分の意志を表すようになれば、何人かの友人は離れていくかもしれません。
しかし、それでよいのです。そういう人たちは、これまで自分をうまく操り、利用していた人たちなのです。
そういう身勝手な友人を失うことによる一時的な淋しさよりも、自分の意志に目覚めることの喜びのほうが、はるかに大きいことでしょう。
「私を愛しているなら〜してほしい」と言ってくる恋人は、けっして自分を愛してくれてはいません。
「もっと優しくしてくれてもいいではないか」と強要してくる友人は、優しさの何たるかを知らないのです。
「してほしいから」という理由だけで要求してくる人に対しては、「したくないから」という理由だけで断ってもよいのです。
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これは、他人の意見や忠告にいっさい耳をかさなくてもよいということではありません。
自分が他人から拒絶されるのが悔しいから、自分も他人を拒絶し返す、という否定的な考え方でもありません。
自分の行動の基準は、「他人に言われたから」ではなく、「自分が正しいと判断したから」でなければならないということです。
自分は気が弱いから他人の要求を断れない、という人もいるかもしれませんが、他人にノーと言うために、度胸や強さは必要ありません。
傷ついた心を抱えている人は、すでに多くのエネルギーを使い果たしています。
そういう人にとって必要なのは、他人に言い負かされない強さではなく、むしろ心を軽くして、よけいなことへの執着を捨てることです。
過剰に責任を背負い込みすぎてもいけませんし、まったく責任を放棄してしまうのもいけません。
自分の意志で選択したことに対してのみ、責任を負えばよいのです。
嫌なことをはっきり認めることによって、しだいに、自分は自分の意志や欲求に従って生きてもいいのだ、と認められるようになります。
意志や欲求に目覚めれば、好きなこと、やりたいことは、自然に心の奥から沸き上がってくるものなのです。
(おわり)