No.196『不公平という不満』
「自分は学歴がないために惨めな思いをしてきたから、子供はいい大学に行かせて、楽をさせてやりたい」と思う親が、せっせと教育資金を出し、子供を塾に通わせ、家庭教師を雇います。
もちろん、いい学校に行かないよりは行ったほうがよいでしょう。自分のやりたいことがあって学問をするのは、おおいに結構なことです。
しかし、単に他人との競争に勝ち、自分だけが得をするために勉強をさせるのは、教育とは言えません。
「社会的成功をえられなかった人間は、見くだされても仕方がない」という恐怖に支配されて育った子供が、たとえ競争に勝ち抜いて頂点に立ったとしても、どれだけ立派な人間になるというのでしょうか。
「いい学校を出ていなければ、ろくな仕事に就けず、つまらない人生を送ることになる」と教え込まれていることから、すでに子供の不幸が始まっているのです。
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親の社会的地位が低くても、恥じることなく、明るく前向きに生きる姿を見せるのが、本当の教育です。
「うちは貧しいから惨めだ。お前はこんな風になってはいけないよ」と脅すよりも、「うちは貧しくても、あんな幸せもある、こんな幸せもある」と教えるほうが、子供にとってはよほど幸せなことです。
いったい私たちは、「損をしないこと」という目先の利益のために、どれだけ多くの「目に見えない大切なもの」を犠牲にしていることでしょう。
努力や勤勉といえば聞こえはよいですが、自分が得をするために一生のほとんどの時間を費やして、いったい何が残るでしょうか。
人間は皆平等といいますが、現実には不平等が存在します。
仮にすべての人が平等に恵まれているなら、私たちは、たがいの気持ちを思いやる必要も、助け合う必要もなくなってしまいます。
人それぞれ、恵まれている条件、そうでない条件は異なります。不平等があるからこそ、互いに支え合って生きていくことに意味があるのです。
人が「不公平だ」と不満を訴えるのは、たいていの場合、自分が損をしているときだけです。
「自分の給料が安すぎる」と文句を言う人も、病気や身体の障害のために、やりたい仕事もできず不自由な生活をしている人の悲しみに心を砕くことはありません。
「私は容姿が美しくないから損をしている」とこぼす人も、幼いころに親を亡くして育った人の苦労には関心を払いません。
自分が損をしていることは不公平だと訴えても、逆に自分が他人よりも恵まれている「既得権」は、なかなか手放そうとはしないものです。
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1本の木の枝だけを見て、「長いか、短いか」と言うことはできません。長いも短いも、ほかの枝と較べてはじめて言えることです。
短い枝と較べれば「長い」となりますが、長い枝をもってくれば「短い」となってしまうのです。
人が「つらい」と言うときも、ただ自分ひとりの状況を考えて「つらい」と言っているのではありません。
あくまで、他人と較べて「つらい」だけなのです。
自分よりもつらい状況に置かれている人を見れば、自分はまだ恵まれているほうだと思えるでしょう。
「つらい」「苦しい」「不幸だ」などというのは、その程度のあやふやなものなのです。
豊かな暮らしに憧れて、高級住宅街に移り住めば、またその中での見栄の張り合いがあります。
他人と較べていてはキリがありません。
どうせ較べるのであれば、「自分が恵まれていること」を数えて感謝し、恵まれない人を思いやるほうが、心豊かに生きられることでしょう。
「不公平だ」という不満を感じたときは、どうか思い出してください。
それと同じだけの熱意をもって、逆に自分が他人よりも恵まれている点についても、不公平を正すべきだと思うだろうか、と。
「自分だけが損をし、苦労している」などという考えは、ごう慢以外の何ものでもありません。
人は皆、つらくても苦しくても、あるいは虚勢をはり、あるいはそれを克服し、懸命に生きているのです。
たしかに、世の中に「不公平」は存在します。しかし「不公平」は、その形は違えども、誰にも平等に与えられているのです。
自分だけが損をしているのではありません。
(おわり)