No.197『足るを知る者は富む』
お金のことでいえば、倹約家とケチとはまったく異なります。
倹約家とは、お金のありがたみが判っており、お金を大切に、上手に使うことのできる人のことです。
対してケチな人は、際限なくお金を求め、どれだけ儲けても満足できず、もっと儲けるにはどうすればよいかということばかり考えています。
ケチは、他人に与えるときも、恩着せがましく見返りを要求します。まわりの他人と助け合い、支え合って生きるという意識はなく、自分が得をすることしか頭にないのです。
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「足るを知る者は富む」とは、老子の言葉です。
豊かさとは、「どれだけ多くのものをもっているか」ではなく、「どれだけ多くのものを必要とせずにいられるか」によって測られます。
欲に苦しめられている人は、その欲を満たすためにどれだけ努力しても、苦しみから逃れることはできません。
わがままな人は、なぜいつまでもわがままを言い続けるのかというと、「わがままを言うことで満足している」からではなく、「どれだけわがままを言っても満足できない」からです。
つねに誰かの愛情を求め続ける人は、なぜ愛情を求めずにはいられないかというと、「どれだけ愛情を求めても、心が満たされない」からです。
昭和のはじめごろまでは、年ごろの男女がデートをしたり、手をつないだりするということは一大事でした。軽はずみな恋愛などできない時代でした。
自由な時代の現在は、恋愛に障害が少ないために、皮肉にも、かえって満足がえにくくなってしまいました。
現代では、たくさんの人と出会う機会が増え、メールアドレスを交換すれば、それだけで友人を確保したつもりになってしまいます。
しかし、そんな手軽な手段でえた友人は、心もとないものです。
逆にまわりの人は皆交遊を楽しんでいるように見え、自分だけが取り残されているような気がして、つねに欲求不満にさいなまれてしまうのです。
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日本は、世界でも類を見ないほどの急激な経済成長を果たしましたが、世論調査では、日本人の半数以上が「現在の所得に不満」だと答えています。
人間の欲望とは、そういうものなのです。
自由であるがゆえに、ほしいものが手に入っても喜びが長続きせず、新たな欲望だけがふくらんでいくのです。
愛情がえられず苦しんでいる人は、ひとつ大切な知識を身をもって学んでいます。
「愛情もお金と同じように、どれだけ求めても満足できることはない」ということです。
その知識を活かして、愛情の「倹約家」を目指しましょう。
愛情を際限なく求めるのではなく、ご飯の最後のひと粒までを味わって食べるように、他人から受けたどんな小さな愛情も無駄にせず、ありがたく受け取り、大切にするのです。
欲を捨てることを阻んでいるものは、見栄です。
友達が高級ブランドの服をもっているから、自分はもっと上等な服がほしい。友達に美人の彼女ができたから、自分はもっと美人の彼女がほしい。
それ自体が目的というよりも、他人に見せびらかして優越感に浸ることが目的なのです。
実体のない幸せをいくら追い求めても、しっかりと手につかむことはできません。
不満も怒りも恨みも、元をただせば自分の欲望です。
無駄な欲望を捨てれば、ストレスの半分以上は消え去ります。
欲を捨てるということは、生きる気力や希望さえも放棄してしまうということではありません。
意義のある人生を送りたいと思うのも、ひとつの欲です。
満たせば満たすほど大きくなり、自分を苦しめる欲は捨てなければなりませんが、自分に喜びをもたらす意欲は、むしろ積極的に求めるべきなのです。
何が自分にとって必要な欲かということは、人それぞれの考え方によって違いますが、共通していえることは、「他人の基準ではなく、自分の基準に従って選んだものであり、何ら恥じることなく胸を張って語れるもの」ということです。
活き活きとした人生を送っている人とは、自分に必要なものとそうでないものをはっきり区別できる人のことでしょう。
(おわり)