No.212『ほどほどに生きる』
「自分はいったい何のために生まれてきたのだろう」ということは、誰でも一度は考えたことがあると思います。
「人間にはひとりひとり、生まれてきた意味があるはずだ」ということがさかんに叫ばれますが、それはとりもなおさず、本来、人生には意味などないからこそ、そう強調せざるをえないのだということです。
「人間にとって、空気は大切だ」とことさらに主張する人はいません。そんなことは当たり前で、誰でも判りきっていることだからです。
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生きる目的が見つからないからといって、悲観することはありません。それでもともとなのですから。
意義のある人生を送りたいと思うのは当然ですが、それにとらわれるあまり、意義を求めて苦しむだけで人生を終えてしまっては、元も子もないのです。
「固い友情で結ばれている」と思っていた親友が、急に自分を避けるようになると、逆に殺意を抱くほどの激しい憎しみを感じてしまいます。
「自分が会社を支えている」と思っている仕事人間は、降格させられただけで、自分のすべてを否定されたかのように落ち込んでしまいます。
「子供をきちんと育てなければならない」という思いが強すぎる親は、思い通りにならない子供につい手を上げてしまい、後悔にさいなまれることになります。
考え方はいたってまっとうで、けっして間違ってはいないのですが、枝葉末節にこだわりすぎて、かえって全体を台なしにしてしまっているのです。
深く考えず、不真面目に生きればよいというのではありません。人生は真剣に生きるべきです。
しかし、「いくら考えても、正しい答えなど見つからない」ということも知っておかなければなりません。
どんなに悩み苦しんでも、「人間はある日突然、この世にぽんと生まれてきて、食べて寝て、いずれ死んでいくだけのはかない存在にすぎない」ということも事実なのです。
大量殺戮を行った独裁者も、原子爆弾をつくった科学者も、自爆テロを起こしたテロリストも、クソがつくほど真面目な人だったのでしょう。
「自分が生まれてきた意味は何なのか」「生きた証を残したい」「社会を変えたい」と真剣に悩み抜いたに違いありません。
しかし、その真面目さが生み出したものは、新たな悲劇だけです。真面目であることは人間の長所には違いありませんが、度が過ぎればまわりが見えなくなってしまうという危険ももち合わせています。
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人は結局、「自分に合った生き方をする」というところに落ち着くしかありません。
自分の人生に目的があると思うことで幸せになれる人は、そうすればよいし、そうでない人は、無理にそうする必要はないのです。
肥満ぎみの人は運動をするべきですが、心臓の弱い人ははげしい運動は控えるべきです。
クラシック音楽は、好きな人にとっては、心をリラックスさせるものですが、退屈な人には、かえってストレスを感じさせるかもしれません。
何ごとも、一律に「こうすればよい」という方法はないのです。
「親を敬うべきだ」というのは正論ですが、親から虐待を受けて育った人にまでそれを強いるのは、酷な話です。
虐待を受けただけでもつらいことなのに、親を愛せない自分に罪悪感をもってしまっては、二重の苦しみとなってしまいます。
家族に恵まれなかった人は、ほかの幸せを見つければよいのです。
「仕事に生きがいをもつべきだ」「夫婦は愛し合うべきだ」「親友をもつべきだ」
これらは至極もっともなことですが、できる人はそうすればよいというだけのことであって、できないからといって自分を責めたり、卑屈になったりする必要はありません。
人は、何かが足りないことの不都合によって苦しむのではなく、「足りないことはいけないことだ」と思い悩むことによって苦しんでしまうのです。
自分の背中に羽根が生えていないからといって嘆く人はいません。
もし人間に羽根があって、空を飛ぶことができたなら、便利には違いないでしょうが、もともとないものは、それが当たり前のこととしてすんなり受け入れられるのです。
不満も絶望も劣等感も、「本来こうあるべきなのに」という思い込みが引き起こすものだといってよいでしょう。
世の中に絶対に正しい考え方というものは存在しませんが、ただひとつはっきり言えることは、「偏りすぎてはいけない」ということです。
何ごとも、ほどほどが一番なのです。
「ほどほどに生きる」ということは、怠惰で中途半端な生活を送ることではありません。
平均台の上を歩くには、バランス感覚と集中力が要求されます。
バランスよく生きるということが、実はもっとも難しいことで、挑むべき価値のあることなのです。
(おわり)