No.216『愛されることの目的』
自分なりの夢や目標をもち、それに向かって努力することは、すばらしいことです。
プロの歌手になることを夢見て、毎日練習に励み、実際にデビューして歌が売れたとしたら、その人の人生はある程度は成功したといってよいでしょう。
ただし、「歌がヒットしなければ、自分の人生は価値がない」というかたくなな思い込みはよくありません。
実際にプロの歌手として活躍している人も、「プロになるまでは絶対にあきらめない」と懸命に努力している人も、その人生はそれぞれにすばらしいものです。
しかし、もっとも幸せな人とは、「プロになれてもなれなくても、音楽自体を心から楽しんでいる人」ではないでしょうか。
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プロの歌手になって、歌がヒットする人などというのは、世の中でもほんの一握りにすぎません。
音楽とは、そんなごくわずかな人々の幸せのために存在するものではないはずです。
「どうすれば歌が売れるか」ということばかりを考えている歌手の歌など、聴いてもあまり感動はえられないでしょう。
「プロの歌手になれなければ意味がない」と思っている人は、自ら音楽の価値を否定してしまっているのです。
「他人から愛されなければ、自分は価値がない」と思う人も同様に、自分で自分の価値を否定してしまっています。
人を好きになることは、誰にでもできます。しかし、「愛されること」は、なかなか思うようにはいきません。
当然ながら、愛されないよりは、愛されたほうがいいに決まっています。できるかぎり人から愛されるよう努力はしたほうがよいでしょう。
しかし、「愛されなければ価値がない」というわけではありません。
「愛される人間になるよう自分を磨く努力をする」ことに意味があるのであって、愛されることそのものが人生の目的ではないのです。
「愛されなければ、自分は価値がない」というのは、結局、「自分は愛される価値のない人間である」と言っているのと同じなのです。
せっかく他人から愛してもらっても、自分で自分の価値を下げているのですから、結局はプラスマイナス=ゼロということになってしまいます。
もちろん、他人から愛されることは幸せです。しかし、「つねに愛されていなければ不安で仕方がない」のであれば、その幸せもつかの間の空虚なものにすぎません。
愛されて幸せになれる人は、「愛されたほうがよいが、必ずしも愛される必要はない」と考えている人なのです。
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スポーツは、勝ち負けがあるからこそおもしろいものです。スポーツをするからには、勝つことを目的とするのは当然です。
しかし、スポーツをすること自体の意味は、勝つことだけではなく、心身を鍛えたり、充実感をえたりすることにあります。
恋愛についても同様に、愛されること自体が最終目的ではなく、「できるかぎり愛される人間になるよう自分を磨くこと」「相手を理解しようと努力すること」に意味があるのです。
「好かれるか、嫌われるか」ではなく、「自分にとって幸せなことなのか」という視点で行動を選択をすれば、人間関係はずいぶん楽になるはずです。
自己評価は、低いよりは高いほうがよいでしょう。
しかし、「自分に自信をもたなくてはならない」と思い込んでしまうと、「自信がもてないことが新たな劣等感となってしまう」という、奇妙な悪循環に陥ってしまいます。
自己評価は、高ければよいというものではありません。高くても低くても、「安定している」ということが重要なのです。
プライドの高い人は、いったんそれが崩れると深く傷ついてしまう危険ももち合わせています。自信のもてることが多いということは、それだけ埋め合わせるべき劣等感も多いということです。
本当に幸せな人は、「私は自分に自信がある」などとは特に意識しないものです。
高いプライドで自分を必死に支えている人よりも、「特別に恵まれた状況になくても満足できる人」のほうがはるかに幸せだと言えるでしょう。
もちろん、他人から愛されるということは、人間にとって非常に大切なことです。
しかし、他人は、自分を愛してくれるために存在しているわけではありません。「どうして愛してくれないのか」と他人を責めてしまっては、せっかくの愛が自分を傷つけ、苦しめることになってしまいます。
「愛されて当然な人」など、この世にひとりもいないのです。
私たちは、配られたカードで勝負するしかありません。
今できることの中で、もっともよいことをすればよいのです。
足りないものを数えて嘆き暮らすのと、与えられたものの中で全力を尽くすのと、どちらが輝きに満ちた人生であるかは明らかです。
(おわり)