恋人に苦しめられ、傷つけられてしまう人は、いつも同じパターンの恋愛を繰り返してしまうものです。
父親の酒ぐせが悪く、母親が苦労させられているのを見て育った女性は、「私はあんな男とは絶対に結婚したくない」と思っているのに、なぜか同じように酒ぐせの悪い男性を恋人に選んでしまいます。
自分を無価値な人間だと卑下してばかりいる人は、自分を受け入れてくれるような温かい人と付き合うべきなのに、わざわざ冷たい人を恋人に選び、責められ、拒絶され、よけいに傷つけられるのです。
他人から見れば「よせばいいのに、なぜあんな人と」と不可解に思うのですが、それは本人にとっては、「失われた自己」を回復するための涙ぐましい戦いなのです。
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ある10代後半の男性は、次のように悩んでいます。
いつも行動をともにしている友人がいる。
一緒に遊んでいるときは楽しいのだが、別れた後にふと漠然とした虚しさに襲われることがある。
その友人は、自分といやいや付き合ってくれているのではないか、陰で自分の悪口を言っているのではないか、と勘ぐってしまう。
友人を信頼したいのに、こんなことを考えてしまう自分が嫌になる。
他人との強い結びつきを求めれば求めるほど、「もし裏切られたらどうしよう」という不安も大きくなります。
「信じたい、でも信じられない」という葛藤に悩まされたときは、どうすればよいのでしょうか。
友人を完全には信用できない。でも、友人との関係はつなぎとめておきたい。
ならば、とりあえず「信用できないままに、付き合っていくしかない」のです。
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ある男子大学生は、毎日が孤独で耐えられないと悩んでいます。
大学に行っても話す友達はおらず、ただ黙々と授業を受けるだけ。昼休みも食堂の隅で独りぼっちで食事をとります。
まわりの学生たちを見ていると、なぜあんなに明るく生き生きとしていられるのか、不思議でなりません。
自分も輪の中に入りたい。誰か声をかけてくれないだろうか。
そう密かに願いつつも、もし本当に声をかけられても、うまく話すことができず、変なやつだと思われるだろう、という不安も拭えません。
もっと自信をもちたいと思うが、これといった才能も特技もなく、容姿も人並み以下の自分が、いったい何を心のよりどころにすればいいと言うのか。
考えはいつも堂々巡りで、「自分は、ほかの人たちのように楽しい人生を送ることはできないのだ。決定的に何かが欠けているのだ」という違和感だけが頭をもたげるのです。
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他人に話しかけて、迷惑そうな顔をされたらどうしよう。
何の取り柄もない自分は、どんな仕事に就いてもうまくいかないだろう。
この先ずっと、友人も恋人もできず、つまらない人生を送るのだろう。
何でも悪いほうに考えて落ち込んでしまう人は、「まだ起こってもいないことを大げさに怖れる」という癖があります。
これは、高所恐怖症の人の考え方に似ています。
高所恐怖症の人は、現在の危険に怯えているというよりも、「これからどんどん増していくであろう恐怖」を勝手に想像して、動けなくなってしまうのです。
高いところに上がれば、誰でもはじめは足がすくむのは当然です。しかし、ふつうは時間がたてば、「落ちる可能性はない」ということが判って、慣れてきます。
高所に慣れた経験のない人は、「はじめのうちでさえこんなに怖いのだから、時間がたてば、さらに耐えられないほどの恐怖が襲ってくるに違いない」という未知の恐怖に怯え、「取り返しがつかなくなる前に、降参しておこう」と考えてしまうのです。
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20代半ばのA子さんは、恋愛において、いつも同じパターンの失敗を繰り返しています。
彼氏は、はじめは優しくしてくれるのですが、だんだん怪しい行動をとるようになり、A子さんが問いつめると浮気をしていた、という結果に終わるのです。
A子さんは、「どうせ、男はみんな浮気をするんだ」と思い込み、新しい恋人ができても、こっそりメールをチェックしたり、かまをかけて反応を試したりしてしまいます。そんな自分に嫌気がさしているのですが、やはり男性に裏切られ続けてきた不信感から、まず相手を疑ってかかってしまうのです。
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独りぼっちでいることが耐えられない、という人がいます。
買い物に行くのも、食事をするのも、必ず誰かを誘って行きます。
休みの日に家で独りで過ごすなどということは考えられず、手当たり次第に友人たちに連絡をし、誰もつかまらないと、まるで自分だけが世の中から取り残されてしまったような不安と焦りにさいなまれます。
他人との一体感をもつことでしか、自分の存在意義を確認できないのです。
人当たりはよく、社交的に見えるのですが、他人と対立することを避け、心には鬱憤がたまっています。
他人に文句が言いたくても言えず、笑顔をつくってしまう。頼まれれば、嫌なことでも断れない。他人の感情を素早く読み取り、自分を押し殺して相手に合わせてしまう。
心がすり切れるほど他人に気を遣ってでも、独りぼっちになることを避けようとしているのです。
それだけに、自分を尊重してくれない人がいれば、はげしい怒りを感じます。
恋人は、どんな大事な用よりも自分と会うことを優先すべきだ。友人にメールを送って、すぐに返信がないと腹が立つ。自分以外の人が楽しそうにしているのを見ると、邪魔をしたくなる……。
「他人が自分を見捨てようとしていないか」をつねに警戒して怯えているのです。
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ある会社員の男性は、毎朝、同僚たちよりも30分早く出社しています。
会社の近くの安いコーヒーショップで一服し、ゆっくり新聞や本などを読んでから、余裕をもって仕事に取りかかるのです。
以前は、始業ぎりぎりの時間に会社に駆け込んでいました。
郊外の自宅から都心の会社まで、すし詰めの満員電車に揺られて1時間半。乗り換え駅では全力疾走。会社に着くころには、へとへとに疲れていました。
ただでさえ時間が惜しいのに、さらに早起きをすることなど、とうていできないと思い込んでいたのです。
しかし、男性は、こう考え直してみることにしました。
もし、会社の始業時間が30分早かったら。もし、自宅と会社がもっと離れていて、通勤に30分よけいにかかるとしたら。
「起きられないので勘弁してください」と言って、毎日遅刻していくわけにはいきません。そうせざるをえない状況に追い込まれれば、やるしかないのです。
そう考えれば、早起きした30分は、「自分が自由に使える時間」です。
30分早く起きてもいいし、起きなくてもいいが、自分は早く起きる。選ぶ権利があるだけ幸せです。
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愛される人間になるためには、まず自分自身を愛することが必要です。
しかし、自分を愛するといっても、自分に自信のない人は、何をどうすればいいのか判らないと思われるかもしれません。
「自分は、何の取り柄も魅力もない、ちっぽけな人間だ。いったいこんな自分のどこを愛すればいいというのか」と悩んでいる人もいることでしょう。
しかし、「自分はちっぽけな人間だ」と嘆いている人は、心の底から自分をちっぽけだと思っているわけではなく、むしろ、自分をちっぽけな人間だと認めることができないからこそ、悩んでいるのです。
自分がちっぽけだと思うのなら、謙虚に他人から学び、自分を高める努力を続ければよい。
ただ、それだけのことです。
「自分はちっぽけな人間だ」と悩む必要はありません。自分だけでなく、すべての人間は、しょせんちっぽけで、はかない存在なのですから。
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「起きて半畳、寝て一畳」という言葉があります。
どれだけ家が広くても、実際に自分の身体が占有している広さは変わりません。
「もっと豊かな暮らしがしたい」という不満をもっている人でも、家の中を見回してみれば、人間が生きていく上で不可欠というわけではない「無駄なもの」がたくさんあることに気づくでしょう。ただでさえ私たちは、身に余る暮らしをしているのです。
せまく質素な家の中でも、目を閉じて「ここは宮殿のような豪邸だ」と想像してみてください。
ひとりの人間が生きていくために、何百坪もの土地は必要ありません。
むしろ、家が広ければ広いほど、管理に手間と費用がかかるし、防犯対策などのわずらわしさも増えることになります。
実際に広い家を所有することと、広い家に住んでいると想像することの間に、どれほどの違いがあるというのでしょうか。
広い家に住むことの利点が、「贅沢な気分に浸れる」ということだけならば、自分で勝手に広い家を想像するのも同じことです。ただの「気分の問題」なのですから。
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他人との付き合いの中では、うれしいこと、楽しいこともたくさんありますが、それと同じくらいに、つらいことや悲しいこともあります。
他人を拒絶している人は、つらい思い出を受け入れられず、「もう二度とこんなつらい目に遭いたくない」と、心を閉ざしてしまっているのではないでしょうか。
大好きな人に振られた。
信じていた友人に裏切られた。
親からひどい仕打ちを受けた。
私たちは、それらの心の傷とどう向き合っていけばよいのでしょうか。
結論から言ってしまえば、「静かにゆっくりと傷が癒えるのを待つ」しかありません。
あせって手っとり早く痛みを取りのぞこうとしては、かえって傷を悪化させてしまいます。
痛みを癒すためのもっとも有効な薬は、「時間」です。
ただし、何も考えずに忘れてしまえばよいというのではありません。
麻酔をかけて身体の痛みを和らげるように、考えることをやめて心の痛みをごまかしても、何の解決にもならないどころか、「よろこびさえも感じられない」という大きな副作用をもたらすことになります。
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