あなたが、会社の同僚の仕事が忙しそうなので手伝ってあげようと思っているとします。
そのとき、同僚に「見ていないで、手伝ってくれよ」と要求されると、あなたは、逆にやる気を失ってしまうのではないでしょうか。
人は誰でも、「自分の意思で行動しているのだ」と思いたいものです。他人に命令されたり要求されたりしたことを、すすんでやろうとは思いません。
愛される人間になるための絶対条件は、「他人に愛されるかどうかということを気にしない」ということです。
相手の関心を自分に向けさせようとして、媚びたり、逆に冷たくしてみたり、いろいろな駆け引きを挑んで、結局うまくいかず、疲れきってしまっている人は、思い切って、「どう思われようとかまわない」と開き直ってみてください。
しかし、この言葉の意味を勘違いしてはいけません。
男性に多いのが、相手の気持ちを無視して、自分の一方的な感情を押しつける、いわばストーカータイプ。
女性に多いのが、裏切られても、ひどい仕打ちを受けても、自己犠牲の精神で、耐えて相手に尽くすというタイプ。
こういう人たちは、たしかに、「自分がどう思われようとかまわない」と考えていますが、やはりその愛の形は歪んでいるといわざるをえません。
根本的に間違っている点は、「自分が好きになれない恋愛」をしているということです。
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「自分が自分でないような感覚」を訴える人は、少なからずいます。
人の輪の中に入って話をしていても、「楽しそうに見せなければならない」という義務感が先に立ち、上っ面な笑顔を見せるだけで、心から楽しめない。
「人生の目標をもたなければ」という意識はあるが、自分が何がやりたいのか、何を楽しいと思うのかさえ判らず、ただ焦るばかりで、何も行動を起こせない。
自分が嬉しさ、楽しさを感じる前に、「どういう感情、思考を抱くことを他人から要求されているか」を読み取ってしまい、それに合わせてしまうのです。
しかし、それは自分の勝手な思い込みで、本当は、誰もそんなことは要求していないのです。
そういう人たちは、映画や音楽は「ヒットしているもの」を鑑賞し、洋服は「人気のあるブランド」のものを買い、レストランは「雑誌やテレビで紹介されていた店」を選んでしまいます。
自分の判断基準がなく、「まわりの人がそうなのだから、自分もそうでなければならない」と思ってしまいます。
自分で車を運転しているのではなく、他人が運転している車の助手席に乗せてもらっているだけで、どこへ行くのかも、事故にあうかあわないかも、まるで他人まかせのように考えています。
結局、何をしても、心から楽しめることがないのです。
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自分に自信のある人ほど、謙虚になれるものです。
しかし、この「謙虚」を、単なる臆病と勘違いしてはいけません。本当の謙虚さの裏には、他人を思いやる気持ちが必要です。
単に、他人から否定されるのが怖いから、自ら先回りして「どうせ自分なんか」と自分を卑下する人は、謙虚でも何でもありません。むしろ、ごう慢であるとさえ言えます。
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幸せな人とは、いつも上機嫌でいられる人のことです。
「いいことがあったから、機嫌がいい」のではなく、「上機嫌な人には、いいことが起こる」のであり、「悪いことがあったから、機嫌が悪い」のではなく、「不機嫌な人には、悪いことしか起こらない」ものなのです。
アランは、「幸福論」の中で、「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する」と言っています。
嫌なことがあるとすぐに落ち込んだり、怒ったりする人は、意志が弱く、気分に流されやすい人だと言えます。
対して、いつも上機嫌でいる人は、悩みがないわけでも、何も考えずにのほほんとしているわけでもなく、強靭な意志をもって、つねに上機嫌であるように努めているのです。
ちなみに上機嫌とは、どんなときでもヘラヘラと笑っているということではありません。ふてくされず、やけにならず、活き活きと、充実感に満ちた毎日を送るということです。
いつも不機嫌な人というのは、どんなに強がっていようとも、偉ぶっていても、実は自分に自信がないのです。不機嫌とは、「もっと自分に気を遣ってほしい」という、他人に対してのサインなのです。
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先月、テレビの情報番組で、何年間も家に引きこもっていた青年が、勇気を出して運転免許取得の合宿に出かける様子を放映していました。
母親は、息子のために、合宿に持っていくもののリストをこと細かに紙に書きとめ、準備をしてあげていました。母親の「私は、息子のためにこんなにも献身的に尽くしてあげている」と言いたげな態度に、私は怒りさえ覚えました。
二十歳を過ぎた大人が外出するのに、母親が持ちものを用意してあげているのです。雨が降っているからと、ご丁寧に電話でタクシーまで呼んで、門の前まで息子を見送ってあげていました。
この青年はずっと、母親からこうして、「お前は、お母さんがついていなければ、ひとりでは何もできない、ダメな子なのよ」という暗黙のメッセージを受け取り続けてきたのでしょう。
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ある本で読んだ話です。
東京で営業の仕事をしているサラリーマンが、地方の支社に出張で訪れました。
その支社には、かつての彼の部下で、目をかけてやっていたAさんがいます。
彼は、Aさんの仕事ぶりが気になり、支社の社員のBさんとCさんに、Aさんの評判について尋ねてみました。
Bさんは、「Aさんは、ろくにあいさつもしないし、人の目を見て話そうとしない。営業マンには向かないね」と批判しました。
また、Cさんは、「Aさんは、はきはきとあいさつをするし、愛想もよくて、話しやすい。営業の仕事は、まさにうってつけだよ」と褒めました。
同じAさんの人柄について、BさんとCさんは、まったく逆の印象をもっているのです。これはいったい、どういうことなのでしょうか。
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「借りたお金は、返さなくてはならない」
この言葉は、それだけをとり上げて考えれば、正しいことであり、異論をはさむ余地はありません。
ヤミ金融などの悪徳業者は、この「正論」を盾にとります。そもそもの金利が法定限度を超えていることや、暴力的な取立てが違法であることは棚に上げて、ただ「借りた金は返せ」という大儀名分だけで押し通そうとします。
どうせ刑事罰の対象となるような犯罪を犯しているのですから、はじめから強盗でもすればよけいな手間が省けるのに、わざわざご丁寧にお金を貸しておいてから、「借金を取り立てる」という名目で自分たちを正当化するところが、彼らの卑怯で小ざかしいところです。
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他人に何かをしてもらったとき、それを当然のように考えて、感謝の気持ちをまったく示さないのは、よくありません。
しかし逆に、他人の好意をかたくなに拒否するのも、考えものです。
他人に何かをしてもらうことを拒むことは、遠慮しているようでいて、実は、「あなたに借りはつくりたくない」と言っているのと同じで、失礼な態度ともとられかねないのです。
他人の好意を素直に受け取ることができない人は、おそらく、恩着せがましい親に育てられたのではないでしょうか。
「どうして、お母さんにいつも迷惑ばかりかけるの」
「お父さんは、お前たちのために、こんなにも苦労して働いているんだぞ」
このように言われ続けると、子供は、「自分の存在というものが、まわりの人にとって負担となっているのだ」という間違った観念をもってしまいます。
子供は、まわりの人に迷惑をかけなければ生きていけない存在であるのに、それを非難され続けると、「自分が生まれてきたこと自体が、間違いだったのだ」という考えにいきついてしまいます。
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他人の言動が気に障ったときこそ、自分の過去を振り返ってください。
「私は、これまで一度も、他人に迷惑をかけずに生きてきただろうか。知らぬ間に他人を傷つけてしまってはいないだろうか」
他人に何かをしてあげたのに、感謝の言葉が返ってこなくて、悲しいと感じたなら、よく思い出してください。
「私は、他人に感謝すべきことに、きちんと感謝を示しているだろうか。何かをしてもらうことを当然と考えて、感謝の心を忘れてしまっているのではないだろうか」
他人に侮辱的な態度をとられて憤慨したときは、自分の言動を省みてください。
「私は、他人に接するとき、誰に対しても誠意を示し、相手の人格を尊重しているだろうか。相手の身分や身なり、性別や貧富の違いによって態度を変えてはいないだろうか」
恋人や友人が、自分の望むとおりのことをしてくれなくて、腹が立ったときは、自分の胸に問いかけてみてください。
「私は、つねに相手の望むとおりのことをしてあげているだろうか。人それぞれに性格も価値観も違うのだから、望むことは異なっていても当然ではないか」
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テレビで、質屋さんの仕事の内容を取材した番組を放送していました。
ある若い女性が、海外で購入したというブランド物のバッグを質屋に持ち込みましたが、鑑定の結果、すぐにそれはコピー商品であることが判明しました。彼女は、「本物だと思って買ったのに、だまされて悔しい」と憤慨していました。
ブランド品などひとつももっていない私は、素朴な疑問を抱いたのですが、本物か偽物かも判別できない人が、なぜ高級ブランドのバッグを所有しているのでしょう?
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