No.070『がんばるな、あきらめよう』
「あきらめる」という言葉は、「やりかけたことを途中で投げ出す」というような否定的なイメージでとらえられがちですが、もともとは「明らめる」と書き、「物ごとの道理、真理を明らかにすること」という意味でした。
苦しみから逃れようともがくのではなく、「苦しいことは苦しい、悲しいことは悲しい」と、ありのままの現実を受け入れる勇気をもち、迷いを払拭することが、「あきらめる」ということです。
大昔のインドでの話です。
ある女性が、たったひとりの子供を亡くして、嘆き悲しんでいました。
彼女は、我が子の死を受け入れることができず、「どなたか、この子を生き返らせる薬をつくってください」と、死んだ子供を抱いたまま、気も狂わんばかりに町中をかけずり回っていました。しかし、そんなことができる人がいるはずもありません。
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そこへ通りかかったお釈迦様が、彼女に告げました。
「一度も死者を出したことのない家から、カラシダネをもらってきなさい。それを材料にすれば、子供を生き返らせる薬をつくることができる」
インドでは、カラシダネという香辛料は、どこの家にも置いてあるものです。彼女は大喜びで、カラシダネを譲ってくれる家を探し歩きました。
しかし、一度も死者を出したことのない家からもらうというのが条件です。何日もかけて探し回りましたが、そんな家はどこにもありません。
人は誰も、親を亡くしたり、兄弟を亡くしたり、大切な家族を失った悲しみを抱えて生きています。彼女は、しだいに正気を取り戻していきました。
すべてをお見通しのお釈迦様は、彼女が戻ってくるのを待って、「例のカラシダネは手に入ったか」と尋ねました。
彼女は、心穏やかに、こう答えました。「いえ、どこにもありませんでした。でも、もう私にはそんなものは必要ありません。我が子が安らかに眠るのを祈るだけです」
「どうにもならないこと」を何とかしようと、もがき苦しむのはよくありません。
何とかなることはすればよいのですが、どうがんばっても、どうにもならないこともあります。また、がんばることが幸せにつながるとはかぎりません。
つらいときは、「がんばる」よりも「あきらめる」のです。
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ちなみに、「がんばる」という言葉のもともとの意味は、「我(が)を張って、強引に自分の意見を押し通すこと」です。
偏差値の高い学校に入るために、受験勉強を「がんばる」。
出世するために、会社に滅私奉公して「がんばる」。
振られた異性への未練を断ち切れず、何とか気を引こうと「がんばる」。
「がんばる」とは、すなわち、他人のことなど考えず、自分だけが得をするために行動することです。
がんばったために、本当に大切なことを見落とし、かえって不幸になってしまった人の何と多いことでしょう。
がんばることは、少しも褒められたことではありません。
「勝ち組、負け組」などというみにくい言葉を、いったい誰が言い始めたのでしょうか。
そんな言葉に惑わされて、「がんばらなければ、取り残される」などと焦る必要はありません。勝っても負けても、幸せにはなれません。
「自分はこんなにがんばっているのに、少しもいいことがない」と嘆いている人は、がんばるのをやめて、あきらめてみてください。
明確な意志、目的をもって努力しているのであれば、苦労自体も喜びとなるはずです。がんばることがつらいだけなら、がんばらなくてよいのです。
「苦労のための苦労」には、まったく意味はありません。
「あきらめる」ことで、視野は大きく広がるはずです。
(おわり)