No.079『愛されなかったとき、どう対処するか』
ゲーテの古典文学「若きウェルテルの悩み」で、ウェルテルは、愛するロッテがほかの男性と婚約したことを祝福しながらも、狂気の中で日記にこう記しています。
「ぼくだけがロッテをこんなにも切実に心から愛していて、ロッテ以外のものを何も知らず、理解せず、所有もしていないのに、どうしてぼく以外の人間がロッテを愛しうるか、愛する権利があるか、ぼくには時々これがのみこめなくなる」
人を愛すれば、自分も愛してほしいと願うのは当然のことです。
「愛は与えるもので、要求するものではない」と頭では判っていても、愛する人を独占したい、人生のすべてを共有したいと思うことは、仕方のないことです。
愛する人がほかの人に占有されているのを見ることは、ウェルテルのように、気が狂いそうになるほどつらいことでしょう。
しかし、ここで忘れてはいけないことは、そもそも「愛されたいという感情は利己的なものである」という真理です。
望み通りの愛が得られないとき、ときに私たちは、まったく逆の憎しみという感情を抱いてしまいます。
「私はこんなに愛情を示してあげているのに、どうしてあなたは、それにきちんと応えてくれないのか」と、相手を批判することで、自分の心をごまかし、苦しみから逃れようとしてしまいます。
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ストーカーになるような人のほとんどは、自分を純粋な人間だと本気で思い込んでいます。
自分は完全に純粋な心の持ち主で、その純粋な愛情を踏みにじった相手は悪い人だ、と決めつけてしまうのです。
「被害者意識」が憎しみを生み出します。
「愛されたい」という欲求を完全に抑えることは、おそらく不可能でしょう。人間なら本能的に誰しももっている欲望で、それ自体が悪いとは言い切れません。
人は、他人に愛されたいから、自分を磨く努力をします。愛されたいという感情は、向上心には欠かせません。
しかし、「自分だけをいつまでも愛してほしい」という願いは、多分に利己的で身勝手な欲求である、ということをつねに頭にとどめておく必要があります。
その利己的な要求を叶えてくれないからといって、相手を批判する権利などないのです。
愛は叶えられなくて当然、叶ったときには心から感謝しなくてはなりません。
愛が叶わなかったときにどういう態度をとるかで、その人の人間性が判ります。
望み通りの愛が叶うことは、奇跡に近いほどまれなことでしょう。ほとんどの人は、叶わぬ愛に苦しみ、悩んでいます。
しかし、その感情が「利己的なものである」ということを認識するだけで、苦しみはずいぶん和らげられるはずです。
愛されたいという欲求は抑えられなくても、それが利己的であるということを知っているのといないのとでは、大きな違いがあります。
すべてが自分の思い通りになれば幸せなのかというと、そんなことはありません。
人間は横着ですから、苦しみや悲しみがなければ、流されるままに生きて、自分を真剣に見つめ直すことはしないでしょう。
愛が受け入れられなかったときこそ、自分の人間としての本性が試されるときです。
苦難は、神が人間に「本当に大切なもの」を気づかせるために与えたものなのです。
(おわり)