あこがれていた人との恋が実って、付き合うことになり、うれしいはずなのに、かえって不安にさいなまれてしまう、という人がいます。
「この人を恋人にできたら、どんなに幸せだろう」と夢見ていたのに、実際に付き合うことになったら、なぜか喜びは消え失せ、逃げ出したい気持ちになってしまうのです。
切実に他人とのつながりを求めていながら、一方では、それが怖いのです。
そういう人は、おそらく、「期待に応えることを強要する親」に育てられたのでしょう。子供のころから「いい子」と言われ続けてきたのではないでしょうか。
他人の気に入る行動をとってこそ、自分は愛される価値があるのだ、という間違った考えを無意識のうちに刷り込まれてしまったのです。
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正義感と責任感。
言うまでもなく、これらは人間にとって非常に重要なことです。
正義感のない人は、自分が得をするためなら「悪いことをしても、見つからなければよい」と考え、利己的になりがちです。
また、責任感のない人は、自分を守ること、面倒から逃げることばかり考え、自分の怠惰が他人に迷惑をかけているという意識がありません。
正義感と責任感は、一人前の大人として認められるための最低条件でしょう。
しかし、これらは、「確固たる自己」が形成された結果として、自然に生じるべきものです。
「自己」がなく、正義感や責任感だけが強い人は、ただ「堅苦しい人」と思われるだけで、かえってまわりからうとまれ、また自分自身も苦しむことになってしまいます。
自分に自信のない人が、やみくもに正義感や責任感で自分を縛りつけるということは、よくあります。
自己をもたない人にとって、正義感や責任感とは、「他人から批判されないための防具」であり、また、「他人を批判するための武器」なのです。
自分は、会社で与えられた仕事を責任をもってこなしているのに、まったく報われない。
母親として、妻としての努めをきっちり果たしているのに、夫は評価してくれない。
責任感の強い人ほど、激しいストレスに悩まされてしまいます。
何をするにも、自分から進んでしているのではなく、「やらされている」という意識しかないのです。
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いつも愚痴や他人の悪口ばかり言っている人は、まわりの人を不愉快にさせます。しかし、当人は、ほどよくストレスのガス抜きをしているので、精神の衛生という面から見れば、悪いことではないでしょう。
もちろん、そもそもストレスをためないようにするほうがよいのは、言うまでもありません。
いつも怒っている人よりも、さらに悪いのは、怒りを抑圧してしまう人です。
これは、ふだん「おとなしい人」と思われている人によく見られる傾向です。
表面上は怒りなどまったく感じていないように見えるのに、心の中では、抑圧された憎しみが渦巻いているのです。
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私たちは日々、人間関係の中で、さまざまなストレスに悩まされています。
活き活きとした人生を送るには、このストレスをどれだけ少なくすることができるか、ということが重要です。
他人に対して感じる不満は、大きくふたつに分類されます。
「嫌なことをされる」という不満と、「してほしいことをしてくれない」という不満です。
「嫌なことをされる」ことへの対処は、比較的容易です。可能なかぎり、その人とかかわらないようにすればよいのです。
学校や会社、近所づきあいなどで、完全にかかわり合いを避けることはできなくても、心理的な関係を絶つことはできます。
できるだけ表面的な付き合いにとどめておいて、心の中でその人を切り捨ててしまえばよいのです。
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映画や小説、テレビドラマなどでは、「家族愛のすばらしさ」をうたい上げるものが数多くあります。
家族の愛、絆。これらはたしかに、人間にとって非常に大きな喜び、生きがいとなります。
「サザエさん」のような大家族ドラマが長い人気を得ているのも、「ほのぼのした幸福な家庭」に誰もが憧れている証拠でしょう。
しかし、「家族愛こそが幸福の源」と言い切ってしまうのは危険です。
それでは、家族のいない人は絶対に幸せになれないということになってしまいます。決してそんなことはありません。
人それぞれに、幸せの形はさまざまです。ないものを求めるのではなく、自分に与えられたものの中で幸せを見いだせばよいのです。
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ある男性が、いきつけの飲食店の娘さんに交際を迫り、断られた腹いせにメールで脅迫して逮捕された、というニュースがありました。
彼は以前、彼女の誕生日にプレゼントをし、「ありがとう」とお礼を言ってもらったことで、「彼女は、自分に気があるに違いない」と思い込み、つきまとうようになったそうです。
知人から贈り物をされれば、お礼を言うのは、人間として当たり前の常識です。
ところが、この男性には、それが当たり前ではなかったのでしょう。
おそらく彼は、「ありがとう」もろくに言えないような、気弱で冷たい人間だったのです。
よっぽど心を許し、好意を抱いている相手にしか、わざわざ「ありがとう」などとは言えない。自分がそうだから、相手もそうに違いないと勘違いしてしまったのです。
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他人から批判されることを怖れすぎるために、人の輪に入れない、社会になじめない、という人がいます。
もちろん、他人から批判されることは、誰にとっても不愉快なことです。
しかし、だからといって、他人というものすべてを怖れ、心を閉ざしてひきこもってしまうのは、とてももったいないことです。
人の心を傷つけるのも人間なら、救ってくれるのもまた人間です。
世の中には、冷たい人もいますが、温かい心をもった人もたくさんいます。
冷たい人に傷つけられたからといって、すべての他人に心を閉ざしてしまっては、優しい人と出会うチャンスも失ってしまうことになります。
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他人の優しさや好意に対して、素直に感謝できない、という人がいます。
他人の好意を拒絶する人は、また一方では、無意識のうちに安心を感じています。先に自分から相手を拒絶しておけば、「見捨てられる不安」に怯えなくてもすむからです。
自分に自信のない人は、他人から優しくされても、それに感謝し、喜ぶことが「怖い」のです。
相手は、今は優しくしてくれていても、いつかは裏切り、自分を見捨てるだろう、という不安をつねに抱えてしまっています。
見捨てられたときのショックを想像すれば、「優しくされていい気になっていた自分」が惨めに感じられると思い、現在を素直に喜ぶことができないのです。
恋人が浮気をしていないかを心配し、行動を監視したり、メールを盗み読んだりしてしまう人は、裏切られることを怖れながら、また一方では、恋人が「隠れて浮気をするような卑怯な人間」であることを密かに期待しています。
浮気をされたのであれば、恋人との関係が破綻しても、自分に愛される価値がなかったわけではなく、「相手が卑怯な人だった」という言い訳ができ、自分は「裏切られたかわいそうな被害者」でいられるからです。
そういう人がもっとも怖れていることは、浮気をされることよりも、「ほかに好きな人ができたわけではないけれど、あなたが嫌いになった」という決定的な審判を下されることなのです。
「いい人に嫌われる」ということは耐えがたいショックなので、何とかして相手を卑怯な悪者に仕立て上げようとしてしまうのです。
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好きな人がいるのに、なかなか気持ちを打ち明けられない。
いきなり告白して、変に思われないだろうかと不安だ。
相手が自分をどう思ってくれているのかが判らない。
相手の前に出ると、どぎまぎして、何も話せなくなる。
このように悩んで、なかなか恋愛の第一歩を踏み出せずにいる人は、よく言えば純情で謙虚ですが、悪く言えば、自分を格好よく見せようという気持ちが強すぎる高慢な人だと言えます。
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他人を信じるということは、健全な人間関係を結ぶために絶対に必要なことです。
他人を信じるためには、まず、自分を信じることからはじめなければなりません。
なぜ他人を信じられないかというと、「自分は、他人に幸福をもたらすことができる人間である」という確信をもてないからです。
「どうせ他人は、自分と付き合うことに何の価値も見いだせないだろうから、自分を裏切るに違いない」と思ってしまっているのです。
すなわち、他人を信じられない原因は、自分自身を軽蔑していることにあります。
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