他人の自慢話は、話半分に聞いておくぐらいがちょうどいいと言います。
これまでに10人の異性と付き合ったと言えば、そのうち半分くらいは数週間程度の付き合いの人も含まれているでしょうし、有名人と子供のころ友達だったと言えば、実際はただの顔見知り程度のものでしょう。
自慢とは、自分をよく見せるためにするものですから、どうしても大げさになってしまうものです。
自分に自信のない人は、他人からバカにされることを怖れて、ゴテゴテと自分を飾って見せようとしてしまいます。
しかし、そもそも自分をよく見せようとすることが、自分に自信がもてない原因なのです。
できないことをできるように見せかけようとするから、「本当の自分が知られたらどうしよう」と怯えてしまうのです。
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社会が複雑になるにつれ、人間関係もややこしくなり、ストレスも増大します。
昔、ムラの中だけで生きていた時代は、自分のムラの掟に従っておけば充分でした。
しかし現代は、価値観は多様化し、さまざまな考えをもった人々がひしめき合って生きているのですから、意見の違いによる衝突は避けられません。
自分がよかれと思ってやったことが、相手には迷惑だったということもあります。
自分はこうしたほうがよいと思うのに、なぜ相手はそう思わないのだろう、といら立つこともあります。
人それぞれ、自分なりのルールに従って生きており、生きる目的も、幸せに対する考え方も違うのですから、仕方がありません。
自分が正しいと思うなら、どんな信条に従うのも自由ですが、ただ最低限守るべき重要な原則があります。
それは、「自分がする権利があると思うことは、他人にもする権利があると認める」ということです。
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「自分はいったい何のために生まれてきたのだろう」ということは、誰でも一度は考えたことがあると思います。
「人間にはひとりひとり、生まれてきた意味があるはずだ」ということがさかんに叫ばれますが、それはとりもなおさず、本来、人生には意味などないからこそ、そう強調せざるをえないのだということです。
「人間にとって、空気は大切だ」とことさらに主張する人はいません。そんなことは当たり前で、誰でも判りきっていることだからです。
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欲望は、生きるための大きなエネルギーとなります。
少しでも裕福な暮らしをしたいとしたいと思うから、人はがんばって働くのだし、他人に必要とされたいと思うから、友情や愛情を大切にしようとします。
欲望が経済や文化を発展させてきたという一面もありますが、他方、欲望はストレスの原因となり、人間を破滅させるほどの苦しみともなりえます。
紀元前5世紀の昔でさえ、ソクラテスは市場にあふれるものを見て、「私にはいらないものがこんなにあるのか」と驚いたそうですが、現在はそれをはるかに上回る多くのものに囲まれているにもかかわらず、人々は満足することを知りません。
むしろ、欲望は手がつけられないほどにますます肥大化してしまっているのです。
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他人にどう思われるかをまったく気にかけない傍若無人な人は見苦しいものですが、他人に合わせてばかりいるのもつまらないものです。
どこまで自己を主張すればよいか。どこまで他人に合わせればよいか。
人付き合いの苦手な人が悩んでしまうのは、その加減が判らないからではないでしょうか。
自分に欲求があるのと同様に、当然ながら他人にも欲求があります。自分の幸せと他人の幸せが一致すればもっとも理想的ですが、相反する欲求がぶつかり合った場合、どこかで折り合いをつけなければなりません。
自己の主張を押し通せば他人から嫌がられるかもしれませんし、他人に譲ろうとするなら自分を抑えなくてはなりません。
その着地点をどう測るべきか。その問いに絶対正しい答えはありません。
言うなれば、「自分がもっとも心地よいと思うところ」で折り合いをつけるしかないのです。
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よくない性格の代表的なものといえば、「怒りっぽい」「わがまま」「嫉妬深い」「ひがみっぽい」などが挙げられるでしょうか。
これらの性格にほぼ共通して言えることは、「短絡的、近視眼的」であるということです。
「怒りっぽい人」というのは、自分の気に入らないことがあったとき、その不満を他人に訴えるために怒りを表すのでしょうが、本当に自分が正しいのであれば、その正当性を穏やかに、筋道立てて説明することもできるわけです。
「怒る」という行為は、「きちんと説明する」という面倒な手間を省いて、脅すことにより無理やり相手を従わせようとすることです。
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自分なりの夢や目標をもち、それに向かって努力することは、すばらしいことです。
プロの歌手になることを夢見て、毎日練習に励み、実際にデビューして歌が売れたとしたら、その人の人生はある程度は成功したといってよいでしょう。
ただし、「歌がヒットしなければ、自分の人生は価値がない」というかたくなな思い込みはよくありません。
実際にプロの歌手として活躍している人も、「プロになるまでは絶対にあきらめない」と懸命に努力している人も、その人生はそれぞれにすばらしいものです。
しかし、もっとも幸せな人とは、「プロになれてもなれなくても、音楽自体を心から楽しんでいる人」ではないでしょうか。
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他人を傷つけたり、悲しませたりしてしまったとき、私たちは「申し訳ない」という罪悪感をもちます。
健全な罪悪感というものは、人間にとって必要なものです。もし、人の心から罪悪感がなくなれば、誰もが自分の利益のみを求め、争いの絶えない殺伐とした世の中になってしまうでしょう。
ただ、卑屈な罪悪感をもってしまうのはよくありません。
どうせ自分は何をやってもダメな人間だ、何の役にも立たない人間だ、どうせ自分はまわりに迷惑ばかりかけている……。そのような不必要な罪悪感は、自分のためにもまわりのためにもなりません。
本当に自分が悪いことをしたと思ったときは、罪悪感をもつべきですが、自分の責任ではないことにまで罪の意識を感じる必要はないのです。
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好きな異性と話をするときは、緊張して何を話せばいいのか判らなくなってしまうものです。
話すことを事前に考え、頭の中で練習していても、実際に会って話をしていると、自分の思惑通りには進まず、結局言いたいことの半分も言えなかった、という経験のある人も多いのではないでしょうか。
引っ込み思案な人は、「うまく会話のできない自分は、つまらない人間だと思われただろう。恥をかくくらいなら、はじめから何も話さないほうがましだ」と、ますます自信を失い、他人を避けるようになってしまうかもしれません。
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若者にとって、「友人ができるか、どうか」ということは、重大な悩みのひとつでしょう。
一見明るく、社交的に見えても、腹を割って話し合える友人がおらず、表面的な人付き合いに虚しさを感じている人も多いものです。
それほど、親友というものはなかなか得がたいものであるということです。
「学校の友人や職場の同僚たちとのくだらない話に付き合うのは疲れる。しかし、仲間はずれにされるのは怖いので、仕方なく付き合っている。楽しそうに振る舞ってはいるが、心の中は冷めている」という人もいるのではないでしょうか。
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