No.254『見返りを求めない心』
愛されることを求めるよりも、愛するほうが幸せである。
他人に親切にするときには、見返りを求めないほうがよい。
他人から責められたくなければ、自分も他人を責めてはいけない。
頭では判っていても、なかなか実行できることではありません。
やはり、好きな人には、自分も好かれたいと願うものです。
せっかく他人に親切にしたのに、何も感謝をされなければ、がっかりしてしまいます。
自分が批判されたときは、「ほかの人だってやっているじゃないか」と、つい他人を責めたくなることもあります。
どうすれば、見返りを求めずに他人に優しくすることができるのでしょうか。
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他人への愛情、善意、情けは、必ず自分に返ってきます。
相手から直接感謝されなくても、巡り巡って、ほかの誰かが返してくれるものです。
行為そのものが返ってくるというよりも、そういう態度や心がけが、幸せを呼び込むのです。
他人に優しくできるから、他人からも優しくしてもらえる。優しくされることがうれしいから、ますます他人に優しくなれる。
うまくその好循環にのれば、ことさら「他人に優しくしよう」などと義務的に考えなくても、「そうせずにはいられない」と思えるようになるものです。
問題は、どうやってそのきっかけをつかむかということです。
せっかく他人に親切にしても、感謝されなければ、やはり損だ。親切が無駄になるのはばかばかしい。
そう尻込みしてしまうのも無理はありません。
しかし、自分の親切が絶対に無駄にならない方法があります。
「見返りを求めて、親切にする」のではなく、「過去に受けた親切に恩返しをする」と考えればよいのです。
「自分が先に親切にしたのだ」と思うから、見返りを期待してしまうのです。
誰でも、過去に他人から親切にされたことがあるはずです。
人は皆、特に子供のころは、他人の手を借りなければ生きていくことはできません。
いま無事に生きているということは、数え切れないほど多くの人の世話になっていることの証拠なのです。
自分は相手に何も親切にしていないのに、まったくの無償で親切にしてくれた人も、必ずいるはずです。
自分でも気づかぬうちに他人に迷惑をかけてしまったこと、不用意に他人を傷つけてしまったこと、それらを黙って許してくれた人もいるはずです。
その恩に報いるために、他人に親切にするのです。相手に直接お返しをすることができなければ、ほかの誰かでもかまいません。
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他人に優しくされたから、自分も他人に優しくする。
他人に許してもらったから、自分も他人を許す。
その善意が無駄になることはありません。見返りがえられるだろうかと不安を感じることもありません。
自分の善意そのものが、他人への見返りなのですから。それで目的を遂げたのです。
他人に親切にするといっても、滅私奉公のように重苦しく考えることはありません。せっかくの善意も、度が過ぎれば、いらぬお節介となってしまいます。
大それたことをしようと思わなくてもよいのです。
相手のために働いたり、物を与えたりすることよりも、もっとも他人のためになることは、「相手を尊重する」ということです。
心を込めてあいさつをし、話を聞き、共感すること。
相手の幸せをともによろこび、落ち込んでいるときには見守り、逆境にあるときにも見捨てないこと。
「相手の存在を認めてあげること」以上の優しさはありません。
小さな善意をこつこつと積み重ねていけばよいのです。
気づいたころには、「愛し、愛される」という大きな循環が自然にでき上がっていることでしょう。
(おわり)