No.259『事実、考え方、感情』
会社で重大な仕事を任されてしまった。失敗すれば私の人生は終わりである。不安で夜も眠れない。
好きな人に振られてしまった。どうせ私は、外見が美しくないから異性にもてないのだ。悔しくて仕方がない。
私は、不器用で口べたである。こんなダメ人間の私には、誰も寄りつかない。一生友達ができないのだと思うと、悲しい。
悩みとは、このように「事実」「考え方」「感情」という3段階の流れから成り立ってます。
「重大な仕事を任された」というのは、事実です。
「失敗すれば私の人生は終わりである」というのは、考え方です。
「不安である」というのは、感情です。
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これらのうち、「変えられるもの」と「変えられないもの」を区別して考えてみます。
事実は、変えられません。
考え方は、変えられます。
感情は、半分だけ変えられます。
「重大な仕事を任された」というのは、実際に起こったことですので、客観的な事実です。これは否定のしようがありません。
しかし、「失敗すれば私の人生は終わりである」というのは、自分の主観にすぎず、事実ではないのです。考え方はいくらでも変えることができます。
「不安である」という感情は、実際に自分がそう感じているのなら、事実です。しかし、「失敗すれば私の人生は終わりである」と思っているかぎりは不安である、という条件つきの現象にすぎません。
感情を無理に「変える」ことはできませんが、考え方によって「変わる」ことはあります。そういう意味において、「感情は半分だけ変えられる」のです。
悩みを感じるというのは、不快な感情をもつということです。
「不安である」「悔しい」「悲しい」などという感情が不快だから、それをなんとか解消したいと思うのです。
「感情は、半分だけ変えられる」と言ったのは、無理に自分の感情を否定してはいけないからです。
感情を押し殺して自分の心をごまかすことでは、問題の解決にはなりません。
悔しいときは、枕を壁に投げつけてもいいし、悲しいときは、声を上げて泣いてもよいのです。
自分の感情をありのままに受け止めることが、自分と向き合う第一段階です。
そうしてはじめて、自分の力で問題を解決しようという意欲と主体性がわいてくるのです。
「だから、〜である」という考え方は、そのまま「だからといって、〜というわけではない」と、否定文に変えることもできます。
「この仕事を失敗すれば、私の人生は終わりである」は、「この仕事を失敗したからといって、私の人生が終わるというわけではない」と言い換えることができるのです。
何を根拠にそんなことを言うのか、と思われるかもしれませんが、「私の人生は終わりである」というのも、確たる根拠のない思い込みにすぎません。
客観的な事実ではないのですから、どう言い換えてもよいのです。
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「外見が美しくないから、異性にもてない」は、「外見が美しくないからといって、異性にもてないわけではない」と言い換えることができます。
「口べただから、友達ができない」は、「口べただからといって、友達ができないわけではない」。
単なる言葉の上での言い換えにすぎませんが、それでよいのです。考え方は、言葉によって形づくられるのですから。
言葉を言い換えて、何度も何度もそう考えることを習慣づける以外に、考え方を変える方法はありません。
自分が心から信じたことが、自分にとって「本当のこと」になるのです。
「だからといって、〜というわけではない」という言い方に慣れてきたら、次は「だからこそ、〜である」と、さらに一歩進んで、よい点を見つけるようにしてみましょう。
「この仕事に失敗すれば、出世コースから外れるかもしれない。だからこそ、真剣勝負にやりがいを感じるのだ。精一杯やって、それでもダメだったら、あきらめもつくだろう。失敗のないふわふわした人生に、何の楽しみがあるだろうか」
「私は外見が美しくない。だからこそ、心と心で他人と触れ合おうという気になるのだ。外見だけで他人を惹きつけても、本当に好かれていることにはならないのだ」
「私は、不器用で口べたである。だからこそ、おべっかを使ったり、うまい言葉で他人をだましたりすることができない。私のそういうところを信頼してくれる人もいるはずだ」
悩んだり落ち込んだりしたときには、「だからといって」と「だからこそ」のふたつのキーワードを思い出してください。
冷静に事実を受け入れ、考え方を変えることによって、感情も変わるのです。
人生は、なかなか思い通りにはいきません。だからといって、それが不幸だというわけではありません。
不遇の中にあってこそ、自分の意志が試されます。
悔しいことがあるからこそ、人は努力し、そこに進歩があるのです。
悲哀の中で見つけたよろこびこそが、真のよろこびなのです。
(おわり)