No.257『何かができることを当然だと思わない』
現代の人は、昔に較べて、多くのことができるようになりました。
不可能なことを可能にするということは、人類の果てしない夢であり、基本的な欲求です。
できることをする。これは、原則として、よいことには違いありません。
しかし、単に「できるから、する」というだけではなく、「何のためにするのか」「本当にやらなければならないのか」ということも、ときには立ち止まって考え直す必要があります。
断水になれば、料理をするにも、トイレを使うにも、風呂に入るにも不便な生活をしいられます。
このときはじめて、私たちは、蛇口をひねれば水が出ることのありがたみを思い知るのです。
水が出なくてイライラする、水道局に苦情の電話を入れてやろうか、と思う人もいるかもしれませんが、こういうときこそ、「水道があるおかげで、私たちはどれだけ便利で楽な生活を送っているか」ということを考えるべきです。
1年のうち1日だけ水道が止まって不便をしたとしても、残りの364日は、水道のおかげでずいぶん楽をさせてもらっているのです。
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朝起きて、洗面所で蛇口をひねり、顔を洗う。誰もが毎日やっている、こんな簡単で当たり前のことも、近代になってようやく実現したことです。
長い歴史で見れば、それは決して当たり前のことではないのです。
いったい何が言いたいのかというと、「できること」をただ漫然と「できるから、する」のではなく、「本当に必要なことなのか」をよく考え、どうしても必要なことであるのなら、「させてもらえることに感謝する」という気持ちをもたなければならない、ということです。
これほど便利で恵まれた時代にあっても、心に問題を抱えている人はたくさんいます。
心を病んでしまう原因は、さまざまな条件がからんでいるとは思いますが、共通して言えることは、「何かができることを当然だと思っている」ということです。
家に引きこもっている人は、「何もしなくても、毎日住む家があって、食事が与えられる」ことを当然だと思っています。
過食症の人は、食糧が好きなだけ手に入れられることを当然だと思っています。
消費者金融に借金をしてまでギャンブルにのめり込んでしまう人は、「見ず知らずの人からお金を借りられる」ことを当然だと思っています。
いくら引きこもりたくても、経済的余裕がなければ、とうてい不可能なことです。
吐くほど食べたくても、食べるものがなければ、できません。
昔は、借金をするには、恥をしのんで友人や親戚に頭を下げなければなりませんでした。
しかし、高度な社会システムが整った現代の日本では、それが簡単にできてしまうのです。
できるから、する。それでよいのでしょうか。
コンビニに行けば、鶏の唐揚げを買うことができます。黙ってレジにもって行き、代金を払えば、誰でも簡単に手に入れることができます。
「ありがとうございます」と言うのは店の側ですが、それを当然だと思ってはいけません。
もし誰も唐揚げを売ってくれなければ、それを食べるためには、自分で鶏の毛をむしり、皮をはいで、切り刻み、調理しなければならないのです。そんなことは、おそらくほとんどの人には不可能なことでしょう。
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店で200円のものを買ったなら、「200円の現金」と「200円の価値のあるもの」を交換したということです。それらは等価なのです。
客もやはり、「私に必要なものを与えてくれて、ありがとう」と感謝しなければならないのです。
もともと、人々はほしいものがあるときには、自分のものを差し出して、ほしいものと取りかえる物々交換をして暮らしていました。
「お金を払えば、何でも手に入る」のではなく、「お金があるおかげで、いちいち物々交換をする手間が省ける」と考えるべきなのです。
200円のものを買うときは、「この商品を200円の現金と交換してくれませんか」と心の中でお願いするような気持ちで店員さんに接してみましょう。
漫然と行ってきたことをひとつひとつ見直してみれば、毎日の何気ない行動の中に、「生きている実感」をひしひしと味わえるようになります。
私たちがきょう1日を生きることができるのは、多くの人の知恵と労力のおかげです。それはまさに、奇跡のような幸せなのです。
お金を払えば何でも手に入ることを当然だと思わないこと。
働いて給料をもらえることを当然だと思わないこと。
病気やケガを医者が治してくれるのを当然だと思わないこと。
乗り物に乗ってどこにでも行けることを当然だと思わないこと。
親が自分を養ってくれることを当然だと思わないこと。
他人のおかげをもってはじめて実現できることに、「当然のこと」などないのです。
「できないのが当然」だと考えれば、何に対しても感謝の気持ちをもち、かえって心豊かに生きられるようになるでしょう。
(おわり)