「あきらめる」という言葉は、「やりかけたことを途中で投げ出す」というような否定的なイメージでとらえられがちですが、もともとは「明らめる」と書き、「物ごとの道理、真理を明らかにすること」という意味でした。
苦しみから逃れようともがくのではなく、「苦しいことは苦しい、悲しいことは悲しい」と、ありのままの現実を受け入れる勇気をもち、迷いを払拭することが、「あきらめる」ということです。
大昔のインドでの話です。
ある女性が、たったひとりの子供を亡くして、嘆き悲しんでいました。
彼女は、我が子の死を受け入れることができず、「どなたか、この子を生き返らせる薬をつくってください」と、死んだ子供を抱いたまま、気も狂わんばかりに町中をかけずり回っていました。しかし、そんなことができる人がいるはずもありません。
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他人から嫌われるタイプの代表格は、「わがままな人」でしょう。
わがままな人は、おそらく、幼いころに親に甘えさせてもらえなかったのです。
自分の言うことを親がしっかりと聞いてくれ、すべてを受け入れてくれれば、子供は、自分の存在価値に自信がもて、自分の喜びのために生きることができるようになります。
充分に甘えさせてもらうという経験を通して、自立した、精神の強い、思いやりのある人間に育つことができるのです。
子供が「ケーキがほしい」と言ったとき、親は、断るならば、子供が納得するように理由を説明しなければなりません。
ただ頭ごなしに「ダメ! そんなわがまま言う子は嫌いだよ!」と叱られれば、子供は、自分の存在を軽く扱われたように感じてしまいます。
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恋人に対して、「どうして〜してくれないのか」「そういう態度が許せない」などと、文句ばかり言う人がいます。自分だけが損をしている、という被害者意識が強いのです。
しかし、率直に言って、その人と付き合うことが自分にとって損でしかないのなら、付き合わなければよいのです。
恋人がろくでもない人間なのだとしたら、そんな相手しか選べない自分も、同じように低レベルな人間だということになります。もっといい相手を選ぶ権利があるのなら、文句を言う前に、迷うことなく選んでいるはずです。
それを認める勇気がないばかりに、自分をごまかし、相手ばかりを責めようとする気持ちが、ますます憎しみを増幅させてしまいます。
本当は自分が他人を必要としているのに、「自分のほうが付き合ってやっている」と思い込もうとするずるさが、苦しみを生み出します。
その矛盾を指摘されることを怖れて、ごまかすことに必死にならなければなりません。
「あんな人と付き合って、損をした」としか思えないなら、「相手の選び方」か、「心のもち方」のどちらかが間違っています。
人付き合いに過剰なストレスをためてしまう人は、他人によって苦しめられているのではありません。自分の弱さをごまかすために言い訳をし続けることに、疲れ切ってしまっているのです。
「自分の心に言い訳をする」ことこそ、苦しみの最大の源です。
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ある異性を好きになったら、勇気を出して愛を告白したほうがよい、ということは、誰でも判りきっていることです。
自分の好意を示すことによって、相手も自分を好きになってくれ、お互いの愛情に発展する、ということも往々にしてあります。
それは判っているのに、度胸がなく尻込みしてしまう人も多いことでしょう。やはり断られることが怖いのです。
しかし、交際を断られたからといって、自信を失ってはいけません。自分の全人格を否定されたと思いこむのは間違っています。
あなたがその人を好きになったのは、まさに「好みのタイプ」だったからでしょう。あなたに好みのタイプがあるのと同じように、相手にも当然ながら好みのタイプがあります。
活発な人が好き、のんびりしている人が好き、スポーツができる人が好き、頭の回転が早い人が好き、遊び心のある人が好き、まじめな人が好き……。
客観的にどれがよい、悪いということはいえません。単に個人の好みの問題です。
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人間の欲望には果てがありません。
給料が20万円の人は、「せめて25万円あれば」と思いますが、現実に25万円の給料が得られるようになれば、今度は「30万円くらいはほしい」となってしまいます。
病気で入院したときは、「健康が一番だ」と思いますが、病気が治って元気になり、日常生活に慣れたころには、またささいなことに不満が募ります。
今、あなたが何かに対して不満を抱いているとして、たとえその不満が解消されたとしても、さらに高い欲望を訴え、新たな不満を感じてしまうことでしょう。
欲望から要求が生まれ、要求から不満が生まれます。欲望に果てがない以上、不満にもかぎりがありません。
現在に不満を抱いている人は、結局、どのような人生を送ろうとも、一生不満を抱くことになるでしょう。時間とともに不満の種類が変わるというだけのことです。
根本的に不満を解消する方法は、「欲望を抑えること」しかないのです。
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子供が非行に走ったり、不登校になったりすると、たいていの親は、どうにかして立ち直らせようとします。怒鳴りつけてみたり、泣き落としてみせたり、必死になって説得を試みます。
子供のためを思う親心は判りますが、実は、親のそういう「必死な態度」こそが、子供をますます追いつめ、苦しめてしまうのです。
親が何とか子供を立ち直らせようとする気持ちの裏には、「あなたは、今のままではダメなのよ」という前提があります。「立ち直らなければ、あなたは、人間として価値がないのよ」と脅迫しているのと同じです。
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誰にも認めてもらえず、ずっと心を閉ざして生きてきた人が、ある優しい人との出会いによって、はじめて「自分を受け入れてもらえる喜び」を知り、幸せに目覚めるという話は、よく聞きます。
それはそれで、すばらしいことです。自分に自信がもてず苦しんでいる人の多くは、そういう幸運を期待しているでしょう。
しかし、もっと大きな幸せが存在します。それは、「自分がつくりあげる幸せ」です。
他人に裏切られることはあっても、自分に裏切られることは絶対にありません。
「自分がつくりあげる幸せ」には、揺るぎない強さがあります。生涯の大きな自信となります。
自分に自信がもてないという人は、「自分の弱さ」に悩んでいるのではなく、実は、「他人が自分を正当に評価してくれない」ことで苦しんでいるのです。
何か目標をもって努力してみても、「努力している自分」の中に価値を見いだすことができず、すぐに表面的な結果を求め、「他人がそれをどう評価してくれるか」を気にかけてしまいます。
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人付き合いが不得手な人というのは、神経質な人だと言い換えることができます。
自分が言った何気ない一言が相手を傷つけてしまうのではないか、自分と話をしていても相手はつまらないと感じているのではないか、などと考えているうちに、何も話せなくなってしまうのです。
まわりの人たちは誰でも気軽に会話をしているのに、どうして自分だけできないのだろう。そんな自分がふがいない。何か話しかけねば、暗い人だと思われてしまう……。
無理をして話そうとすればするほど、ぎこちなく不自然な会話になってしまい、よけいに自信を失ってしまう、という繰り返しで悩んでしまっています。
しかし、他人と話をするとき、神経質なほどに相手の気持ちを推し量るということは、けっして間違ってはいません。
他人の気持ちなどおかまいなしにずけずけと言いたいことを言う人よりは、よっぽどましです。
他人が傷つくことを平気で言う人。相手の都合を考えず、自分のペースだけで話をする人。相手が聞きたくもない自慢話や愚痴を長々と話す人……。
そういう人たちの真似をしてはいけません。
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ある心理学の本に、「人間は、明るくなければ幸せになれない」と書いてありました。
こう言われると、内向的な性格の人は、反発を感じるかもしれません。
しかし、人は誰でも、明るい性格に変わることができるのです。
「明るい人」とは、よくしゃべる人のことではありません。耳が不自由な人は皆、暗い性格なのかというと、けっしてそんなことはありません。
うるさいほどに話し好きでも、ひねくれた性格の人もいますし、もの静かでも、活き活きとした毎日を送っている人もいます。
人間の明るさとは、物ごとのとらえ方、現実の受け止め方によるのです。
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ゲーテの古典文学「若きウェルテルの悩み」で、ウェルテルは、愛するロッテがほかの男性と婚約したことを祝福しながらも、狂気の中で日記にこう記しています。
「ぼくだけがロッテをこんなにも切実に心から愛していて、ロッテ以外のものを何も知らず、理解せず、所有もしていないのに、どうしてぼく以外の人間がロッテを愛しうるか、愛する権利があるか、ぼくには時々これがのみこめなくなる」
人を愛すれば、自分も愛してほしいと願うのは当然のことです。
「愛は与えるもので、要求するものではない」と頭では判っていても、愛する人を独占したい、人生のすべてを共有したいと思うことは、仕方のないことです。
愛する人がほかの人に占有されているのを見ることは、ウェルテルのように、気が狂いそうになるほどつらいことでしょう。
しかし、ここで忘れてはいけないことは、そもそも「愛されたいという感情は利己的なものである」という真理です。
望み通りの愛が得られないとき、ときに私たちは、まったく逆の憎しみという感情を抱いてしまいます。
「私はこんなに愛情を示してあげているのに、どうしてあなたは、それにきちんと応えてくれないのか」と、相手を批判することで、自分の心をごまかし、苦しみから逃れようとしてしまいます。
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